#9 格助詞の用法の統一的な概念「を」と「に」


*助詞の用法について

日本語の<格助詞>の用法を記述してみると、ほとんどの場合それが一つということはありません。そして「に」や「で」は他の基本的な助詞「が」「を」などと比べてその数がとても多いことに気が付きます。私たちがこの助詞を使う時、いちいち「この用法だから、この助詞を使う」と意識しているわけではありません。しかし、その用法を観察してみると、ある程度分類されていることに気が付きます。ちょうど、英語話者が「ON」の意味が何かをいちいち意識しなくても不自由なく使っていても、私たちが外国語として勉強する際にはその用法をいちいち分類しないと習得が難しいと考えるのと同じです。
そもそも<格助詞>にいろいろと用法があるということはどういうことなのかを考えてみたいと思います。
「本が机の上にある」の「に」は<存在の地点>を表わす用法である、という記述があるとします。
ここで注意したいのは、「に」自体に<存在の地点>を表わす意味があるのではなく、「本」という名詞、「机」という名詞、そして「ある」という動詞の組み合わせによって「に」が<存在の地点>を表わす用法に『ナル』(=解釈される)ということです。
つまり、同じ「本」と「机」でも「のせる」という動詞といっしょであれば、「本を机の上にのせる」で「に」は<移動の着点>の用法にナルわけです。
結局、格助詞というものには<意味>があるのではなくて、<働き>があって、それが文を構成する要素、特に述部の用言によってその<用法>が決まることになります。
「で」についても同様に考えることができます。
「薬で治す」の「で」は、「薬」と「治す」という構成成分によって「で」が<手段>の用法にナルのであって、「で」自体に<手段>を表わす意味があるのではないということです。同じ「薬」を使っても「亡くなる」を使えば「薬で亡くなる」となり、<原因>とナリます。



*私たちは外界の事象をどのように<認知>するのか

 格助詞それ自体に<意味>があるのではなく、その<働き>が具体的な文の中にあって具体的に示されたものが<用法>です。
視点を変えれば、<用法>というのは文法を<記述する>作業で便宜的に作られたもので、<働き>というのは私たちが外界の事象をどのようにとらえて文の構成成分をまとめあげるか、その<認知的>な作業の現われと考えられます。もし、「に」とはどんなものかを統一的に語ろうとしたら、それは<用法>を記述するのではなくて、<認知的>な在り方を探る必要があると思います。同じ<認知>の枠組みにあるものは同じ助詞を使い、ことなる<認知>の枠組みにあるものは異なる助詞を使うことになります。



*「を」「に」の働き

 以下の内容は『意味づけ論の展開』(田中茂範・深谷昌弘/紀伊国屋書店)の記述を踏まえてまとめたものです。この本は『コトバの<意味づけ論>』の続編として刊行されたもので、その中に認知的な視点で格助詞の働きについて論述した章があります。「言葉の意味はどうやって生まれるのか」ということを「認知意味論からの越境(副題)」という立場で書かれたものです。二冊ともかなりのボリュームですが、言葉の意味というものを改めて考えさせてくれるいい本だと思います。私自身この本はほとんど「つん読」状態でしたが、今回読み直してみてまとめてみました。

 注)この本では助詞の<働き>を<操作因子機能>という名称を与えていますが、名称自体はここでは問題ではないので分かりやすい<働き>という名称を使います。
 注)<「を」/「に」の働き>の部分については、基本的な考え方は本書によるものですが、その記述の仕方や解釈、まとめは私個人の考え方によるのです。それ以外の部分は全く私の個人的な考えです。興味があるかたはどうぞ元の本をご参照ください。論文ではないので、引用については厳しく指摘していません。(そんな内容をHPに載せていいのかという問題はあるとは思いますが・・・(^_^;)



*「を」の働き

[従来の用法分類]

 1 <対象>A:(動作対象)花瓶を壊す
       B:(感情対象)花を愛する
 2 <起点>岸を離れる
 3 <経路>歩道を歩く
 4 <期間>いなかでお正月を過ごす
 5 <動作主体>学生を立たせる

[「を」の働き]

 <動作作用が及ぶ対象として指定する>
 
この<働き>が従来の用法の分類に共通するものである。
 認知的なアプローチでは文法に関して<二分法>という考え方を排して、プロトタイプ(典型的)かどうかとうことを問題にする。つまり、この<働き>が典型的に表われているものからそうでないものまであり、その一番周辺の部分では<他の働き>につながっていくという考え方である。
以下で上の分類と対比させながら「を」の<働き>を見てみる。

1A 典型的な例:他動詞文における目的語として指定
1B 少し典型からずれる例:典型的ではないが何らかの作用を及ぼす対象として指定
   つまり、直接の作用のみならず、感情、感覚、概念的なものをについて
   主体から作用が及ぶものを指定する。
2、3 かなり典型から離れる例:<起点><経路>で場所を指定する
  従来は「を」は『場所』を表わすとされているが、それは意味上の格の解釈であり、
  認知的には一つのものと考える。
  つまり、「を」は動詞の作用する対象として指定するということである。
  それが意味上『場所』を表わしているにほかならない。
  重要なことはそれが単なる場所を指していするものではなく、『作用がそれ全体に及ぶ』
  ところの<対象>であるということである。

以上の三つの場合の「を」の働きを典型的かどうかで並べると次のようになる。

  公園を+ 壊す、造る > 見る > 愛する > 出る、歩く、通る

そして、これらは「を」の働きとしては全て同じと考える。
『公園ヲどうするのか』ということについて動詞がそれを語るわけである。
従って、その作用は対象『全体』に及ぶものである。これが他の助詞の場合と異なる特徴である。

しかし、同列に扱うからといってそれが全て「他動詞」であるというわけではない。西洋文法の影響で動詞が他動詞か自動詞がという区別が取り立てて重要なように見られるが、日本語にとっては「出る」「歩く」「通る」という動詞の表わす事象は<動作作用を及ぼす対象>として<認知される>という点が重要である。
しかし、「他動性」とう点ではこれらの動詞は程度の差こそあれ、何らかの他動性を持つと言える。

4 メタファーによる対象の指定:時間を作用が及ぶ対象として指定する
  メタファーによって時間をそれが流れる空間、さらには時間を物扱いにするということである。
  認知的アプローチで最も重要な点の一つに「メタファー」がある。
  『AをBとして見る』という認知作用のおかげで私たちの表現はより豊かになっている。

 1)『お正月を家族といっしょに過ごす』(空間としての認識/その中を移動する)
 2)『一生の大半を無駄に費やす』(物としての認識/その物を使う)

5 使役作用が及ぶ対象
  自動詞から作られる使役文では動作主に「を」をつけることがあるが、
  述部(の動詞)がどのような形であっても、それが作用であるからには対象として
  「を」で指定するということである。
  このような視点から言えば、1〜3の場合には、動作作用、知覚作用、移動作用など
  のように記述できるかもしれない。
 

[「を」に統一的な<働き>があるということの意義]

このような統一的な<働き>を考えることにどんな意義があるのか。「を」の用法を分類記述すればそれで問題ないのではないか、という疑問がある。

*言語の創造性について

言語の素晴しさというのはその<創造性>である。限られた文法と有限の語彙を使用して無限の文を作り出すことができる。使用例を丁寧に観察して「を」の用法を分類することは、日本語を教える立場からすれば非常に有意義なことであり、また実際にそれが大いに活用されている。しかし、現実の世界では<言葉は無限の表現を生み出す力>を持っていて、その力が何かを考えると「を」の<働き>というものを私たちは暗黙知として知っていて、それを利用して<創造的>な日本語を生み出すことができると考える。

例えば、もう随分前のことになるが、ある広告コピーで『日本を休もう』という日本語があった。このコピーの与えるインパクトというのはまさに「を」の<働き>によるものと見る。
このコピーを目にした人が抱くイメージ(受け取る意味)は「学校を休む」という文の「を」の用法を超えたものであり、それがまさに「を」の<働き>のおかげだと思うのである。

*「を」と「から」の違いについて

従来の用法の分類では<起点>を表わすものには「を」と「から」があるとされている。その違いについても学習者から質問されることも多いので、教師はそれに答えるべく、それぞれが使用される文の意味特徴から「〜の意味で使われる時には「を」を使います」のような説明をしていると思われる。
このような意味特徴が生まれる背景には、助詞の<働き>が大きく関係している。
1)「を」の<働き>
   :動作・作用の及ぶ対象を「それ全体を捉えて」指定する
2)「から」の<働き>
   :動作・作用の「(着点を想起しながら)その出どころ・起点を特定して」指定する

次の例文を見ながら、その<働き>の違いによる意味を考えてみる。

(1)3時に家を出た。(×から)
(2)20歳で家を出た。(×から)
(3)地震で家が揺れたので慌てて家から出た。(×を)
(4)こっそり勝手口から出た。(×を)
(5)新幹線は5番線から出る。(×を)
(6)(大家さんが住人に)3日以内に部屋を出ていってくれ。(×から)
(7)(住人が友達に)お前の顔なんか見たくない。早く部屋から出て行ってくれ。(×を)

以上の例から「を」が対象として「全体を捉える」ことから(1)(2)(6)で「から」が使えない原因になていると思われる。この「全体を捉える」ことがその場所という概念を抽象化させ、(2)のように「独立する」という意味になると思われる。他にも「卒業する」の意味で「学校を出る」や「仕事をやめる」の意味で「船を降りる」などもそうである。
一方「から」は「(着点を想起しながら)出どころ」を指定することから、どうしても<中→外><上→下>(またはその反対)のようなイメージと結びつくために(3)〜(5)や(7)が「を」を許さないことになると思われる。



*「に」の働き

[従来の用法分類]

 1 <存在地点>A:(具体的)机の上に本がある、父はいま家にいる
         B:(抽象的)失敗の原因はあなたにある
 2 <移動の着点>東京に行く/来る/帰る
          電車に乗る、部屋に入る
          壁に紙をはる、棚に本を置く
 3 <変化の着点>医者になる/する、信号が赤に変わる
          二つに分かれる
 4 <対象>A:(動作が向かう相手)友達に会う、泥棒に飛びかかる
                   提案に賛成する、歌手にあこがれる
       B:(授受の相手)友達にあげる、先生に聞く(注:「尋ねる」の意味)
                友達にもらう、先生に聞く(注:「〜から聞く」の意味)
       C:(原因)結果に失望する、恋に悩む
       D:(明示)地理に詳しい、駅に近い
 5 <目的>買い物に行く、忘れ物を取りに帰る
 6 <時点・順序>3時に会う、はじめにこれをする
 7 <動作主体>A:(受身文)どろぼうに入られた
         B:(使役文)弟に行かせた
         C:(可能文)これはあなたにはできない
 

[「に」の働き]

<「〜に」の「〜」をとりあえず何らかの対象として指定し述部へ差し向けよ>

 この<働き>が従来の用法の分類に共通するものである。

 「を」の<働き>と異なる点は、「に」はそれを対象として<指定>するだけで、あとは<述部へ差し向ける>ということを指示するだけである、ということである。これだけでではあまりに抽象的なので、具体的に上の分類例を取り上げながら考えてみたい。

1)まず、分かりやすい例として上の分類の<対象>Cを取り上げる
  Cの中には「を」と「に」の両方をとる動詞がある。
  (8)その知らせ に/を 喜ぶ
  この文で「を」を取れば、<動作・作用の及ぶ対象として指定>するわけだから、「喜ぶ」とう動作が積極的な働きかけの意味を帯びる。一方、「に」を取れば、とりあえず、何らかの対象となることだけを意識しておいて、あとは述部に差し向けるわけだから、「喜ぶ」という動詞からその原因となっている対象であると解釈されるので、「を」のときに感じる他動性のようなものではなく、一時的で受け身てきな感情である意味を帯びることになる。

2)つぎに、<対象>のBを取り上げる
  <授受>に関して、「あげる」も「もらう」も同じ「に」を取るということは考えて見れば不思議なことである。物事の移動の方向が反対であるにもかかわらず同じ「に」で表わされることは、日本語教師ならともかく、普通の日本人にとって意識されることではなく、「平気で」使っていることである。なぜこのようなことが許されるのかと言えば、「に」は<述部に差し向ける>ことしか指示していないからと考えられる。「あげる」であれば、ごく自然に<あげる相手>と解釈し、「もらう」であれば、ごく自然に<もらう相手>と解釈しているだけである。

3)次に、<対象>のAを取り上げる
  「会う」が「を」ではなく「に」を取ることは、英語話者にとっては不思議なことである。それは母語と比較したときに「会う」は他動詞で「を」を取ると意識されるからである。しかし、日本人にとって「会う」という動作は<動作・作用が(全体に)及ぶ対象>としては指定できないと<認知>されるのである。「見る」はそのように認知されても「会う」はそのように認知されないということである。

4)最後に、<対象>のDを取り上げる
  形容詞のあるものはその対象を明示するために「に」をとることがある。まさに、そのように意味解釈されるのは形容詞の意味からであって、「に」そのものにはじめからそのような意味が決められているわけではない。

このようにみていくと、「に」の働きは「を」のそれと違って、『述部任せ』というところがある。<述部に差し向ける>ということはそういうことである。この考えを押し進めると、『「に」はなんでもあり』の助詞になってしまう。分類の1〜3にしても、それははじめから決まっているのではなくて、とりあえず意識の中で対象として指定されていたものが、述部に差し向けれて、「存在動詞」だったら<存在地点>の意味で、「移動動詞」だったら<移動の着点>の意味で、「変化動詞」だったら<変化の着点>の意味で解釈されるということになる。
確かに、そうなのだと言われればそうなのかなと思うが、何か納得できないというのが本音である。
「を」や「で」など他の助詞で扱えないものは全部「に」に回してしまえ、というような『掃き溜め』の存在になっているようで悲しいものを感じる。そもそもこんな『漠然とした』働きしか想定できないのなら、そんな概念はなくてもいいのではないのか、とさえ思えてくる。「に」の<働き>を考える意義はどこにあるのだろうか。

[「に」の統一的な<働き>を考え直してみる]

 そこで、改めて私たちが外界の認知の仕方を考えてみて、そこから「に」の<働き>について私なりに修正を試みたいと思う。

まず、次のような簡単な事象を想定して、認知の仕方を考えてみる。
(9)Aという物体がXという地点からYという地点に移動した

この時、それを観察した人はこの事象から何を認知するのだろうか。
1)まず、移動する物体は目立つから当然認知の対象となる→「A」
2)次に、移動するという現象そのものも認知の対象となる→「移動する」
3)そして、Aが始めに存在した地点と移動後に存在する地点も認知される→「X」「Y」
4)さらに、「移動」という事象がどのような場で起こったのかも認知されるだろう→「場」
5)また、「移動」に際して外部からの力の影響があったのならそれも認知される→「外部からの力」

1)〜5)がすべてそろっていれば、例えば次の文が生成される。
(10)山田さんが自分の家で一階から二階に荷物を上げた

1)について:「荷物」は<動作・作用の及ぶ対象>と認知されるので「を」を取る
つまり、外界の現象で認知されるものの基本は<動き>であり、それは<動かない=静止している>ものも含めて認知されるものの基本と考える。その<動き>を観察したときに、その動きに何か働きかける力の存在を認めれば、その<動き>の主体は「を」としてマークされる。もし、そのような力の存在を認めなければ、その主体は「が」をとって文の主語となる。

問題は3)である。その物体がなんらかの事象において、その時に<存在する地点>というのは当然認知され、それを何らかの文法でマークされなければならない。それが「に」の<働き>と考えられるのではないかと思う。
ここであらためて「に」の<働き>を次のように想定してみる。

<動作・作用が向かう対象として指定する>

「を」との違いは、動作・作用が<及ぶ対象>なのか<向かう対象>なのかである。それが目に見えるものかどうかという点を考慮して次のよう段階を想定してみる。

 <及ぶ対象>として「を」←→<向かう対象>として「に」
壊す>見る>愛する>  /喜ぶ/ >驚く>もらう>賛成する>あげる>会う>飛びかかる
造る          感謝する  悩む     憧れる     

「喜ぶ」や「感謝する」などは感情の作用が<及ぶ対象>と<向かう対象>との境に存在する事象であると考えられる。
「もらう」の位置については、<向かう対象>と実際の物の移動が反対になっている点で「あげる」と異なる。「驚く」の「に」が<原因>と解釈されて、何かそのようにさせるものを『受ける』というイメージを引き起こすことと、実際に物を『受け取る』ということのつながりを考慮しての位置付けである。
しかし、「驚く」はそのような感情が<向かう対象>として、「もらう」はそのような物の移動を引き起こすにあたって相手になんらかの精神的働きかけを認めることで<向かう対象>として「に」をとることには変わりがない。つまり『精神的働きかけ』の<向かう対象>として「に」が使われるが、実際の『物事」の移動は反対方向であるという点で上のスケールでは低い方に位置しているわけである。

次に上の分類の1〜3についてであるが、<向かう対象>として2の用法があるのは当然である。1については前に書いたとおり、<移動しない=静止>という認知の仕方からすれば、当然静止しているものについては<動作・作用がない>場合にあたり、結局<向かう対象>とは<今存在している地点>として指定することになるのは問題がないと思う。
3については「を」の記述にも登場したように、メタファーである。<モノの移動>という現象がXからYへの移動とするなら、メタファーによってXが元の状態で、Yが変化後の状態と見立てることになる。

5<目的>の用法はどうだろうか。
<向かう対象>とは典型的には1、2のように「場所」であったり、4のように「人」や「物」であるが、それが「コト」となったら、それは<目的>となるのは容易に理解できる。

6<時点・順序>の用法はどうだろうか。
これは1の<存在地点>のメタファーであると考えられる。いわゆる、<空間>から<時間>へのメタファーだと考えれば、ある動作・作用が時間のスケールの上でどこに存在するのかというった見立てができる。

7<動作主体>の用法については不明。(^_^;
 態(ボイス)に関わる現象は他の要因が強く影響しているのかもしれない。



*まとめ

以上、外界の事象をどのように認知して、どのような点をマークするのかということと、メタファーという認知作業を通じて、「を」と「に」の<働き>を考えてみた。
「を」「に」の<働き>があると考えることは、私たちが「〜を/に」と発話したときに、「〜」という対象を<及ぶ対象>か<向かう対象>として大ざっぱに意識しているということである。そして述部がそれを受けて、文が完成したところで「を」や「に」の意味用法が定まるということである。そして、このような<働き>を考えることは『言語の創造性』を説明する上で欠かせないものと思われる。



*問題点

ここでの考察は動詞の述部を主に進めてきたが、形容詞文、名詞文の場合にはどうなのかという問題。そしてボイスが関係してくる文の<動作主体>を表わす「に」や「を」をこのような<働き>で統一的説明できるのかとう問題がある。



*認知的アプローチの面白さ?

ここで強調された『認知的アプローチ』というものは別にことさら新しいものではなく、国語学における助詞の意味分析は伝統的にそのような視点があるとも言われています。(未確認ですが)
それに、従来の記述文法においても、「〜という意味のときには・・・・」という記述は大なり小なり認知的な視点で語られています。ですから、これを読み終わった後で、こんなことはもう既に明らかなことだと思われた方も多いと思います。
ただ、メタファーというのは非常に強力なもので、従来メタファーというと何か修辞学の分野のことのようで言語学とはあまり関係ないように考える人もあるかもしれませんが、ある語、表現の基本的な意味や用法に対して、派生的なものを考えるときや、その表現が実際の発話でどのような意味を持つのか(「語用論」の分野)を考える時、そして今回も取り上げた「言語の創造性」を考える時などにはこのメタファー(隠喩:類似関係による見立て)メトニミー(換喩:隣接関係による意味のずれ)などはとても重要な視点となります。
実はこのメタファーやメトニミーはあまりにもネイティブにとっては当り前すぎて気が付かないということがあります。その一例として、『メタファー思考』(講談社現代新書)から紹介します。この本は私がメタファーについて興味を持つきっかけとなった本です。新書版なので値段も手頃だし、一般向けに書かれているということもあって、ぜひ一読をお勧めします。
「たい焼き」を買った人が、それを食べてみて『鯛が入っていない!』と怒ることはありません。それはメタファーで「形を鯛に見立てている」だけですから。でも、「たこ焼き」を買った人が、それを食べてみて『蛸が入っていない!』と怒るのは無理もありません。でも、「たこ焼き」を買いに行ったら、たこの丸焼きが出てきたらきっとびっくりするでしょう。つまり、「たこ焼き」は中に蛸を入れて焼いたものだからメトニミーということです。メトニミーというのは直接そのものを指さずに隣接するものを指して、そのものを指示するというものです。「どんぶりをたいらげた」と聞いて、どんぶりまで食べてしまったと勘違いする人がいないのも同じ理由からです。
人間の認知の仕方というのは面白いものだと私は思うのですが、皆さんはいかがでしょうか。



ch5のトップ
ホーム