#45「〜すぎる」と「〜すぎだ」の違いは何か


 

この考察は、「日本語を考える会 掲示板」(現在は「日本語はいかが」(http://principle.jp/bbs2/cf.cgi?id=brn)に投稿したものを整理したものです。

 

「〜すぎる」とう接辞は動詞にも形容詞にもつきますが、これとよく似た接辞に「〜すぎ(だ)」があります。例えば「食べ過ぎる」に対して「食べ過ぎだ」という形です。ところが形容詞の場合には、「高すぎる」は自然ですが、「高すぎだ」というのは、動詞の場合と比べてどこか不自然な感じがします。このように、形容詞では「〜すぎだ」が不自然になることが多く、使いにくいこと、動詞の場合もその使い分けの説明が大変(?)なことから、初級では、「〜すぎ(だ)」という形は学習せずに、「〜すぎる」のみを扱うことも多いようです。

 しかし、日常生活で「ねえ、食べ過ぎだよ。もうやめておいたら?」という言い方をする場合に、「ねえ、食べ過ぎたよ/食べ過ぎるよ/食べ過ぎているよ。もうやめておいたら?」というには、ちょっと不自然です。さらに、不自然だと思われていた「形容詞+すぎだ」も主に「〜すぎ!」のような会話調の形で実際にはよく使われているようです。

 ですから、初級でなくても、中級レベルでは、「〜すぎる」と「〜すぎだ」の違いは指導する必要があるのだろうと思います。

 

■「動詞+すぎだ」の思い出〜分析の方向付け

 

初級の授業で「〜すぎる」を導入した時のことです。

動詞は「〜すぎる」と「〜すぎだ」の両方の形が使われるのに、形容詞は「〜すぎる」が主で、「〜すぎだ」はあまり使えません。しかし、両方使える動詞にしても「〜すぎる」と「〜すぎだ」では使われる場面に違いがあるのではと思い、それをクラスで説明した記憶があります。

例えば、お酒を飲んでいる「現場」で『おいおい、飲み過ぎダよ」というのは自然ですが、『おいおい、飲み過ぎルよ』とか『おいおい、飲み過ぎタよ』と言うのは不自然ですよね。ですから、「現場」で「〜すぎている」時に、それを注意する場面で「〜すぎだ(よ)」を使う、と説明した記憶があります。

 

あの当時は、文法を深く考察することよりも、「どのように使われるか」に焦点をあてて説明することが多かったし、そのほうが学習者に理解させるのに都合がよかったので、このような説明をしていたのだろうと思います。

それで改めて「現場性」とは何かを考えることから出発して、最終的には、動詞と形容詞という品詞の違いからくる制約、そして、話者の心的態度(モダリティ)の点で、「〜すぎる」と「〜すぎだ」の違いをまとめてみたいと思う。

 

結論を先に書いておくと、「形容詞+すぎだ」はモダリティの形式の一種だと思います。つまり、ある事態に対する話者の心的態度ですね。「形容詞+すぎる」は客観的に程度が限度を超えていることを伝える形式ですが、「形容詞+すぎだ」は「〜だ」をとって「〜すぎ!」のように使われることが多いことからしても、「形容詞+すぎる」コトに対して、話者が自身の気持ちを直截的に言っていることの表れだと思います。

 

■「形容詞+すぎだ」モダリティ論(前置き)

 

「形容詞すぎだ」がなぜ不自然なのか、そして不自然なのに、なぜ使われるのかを考えるにあたって、まず「〜すぎる」と「〜すぎだ」の概念を図式化しておきます。

 

動詞であれ、形容詞であれ、「〜すぎる」は動詞の「過ぎる」の概念の延長にあります。(1)から(2)が生まれ、(2)から(3)が生まれます。まずは、この概念図をもとに考えてみたいと思います。

 

■動詞の場合の「〜すぎる」と「〜すぎだ」の概念

 

(1)本動詞「過ぎる」の概念図

 

         基準点

  【動作・事態】→|→→

       【・・・**】(動的な視点)

          ↓

       『(基準点)を過ぎる』

       【〜をすぎる】

       「3時を過ぎる」「3キロ地点を過ぎる」

       「3時を過ぎた」「3キロ地点を過ぎた」

 

(2)接辞「〜すぎる」の概念図

             

         限界点

  【動作・事態】→|→→

       【・・・**】(動的な視点)

          ↓

       『程度が(限界点)を過ぎる』

       【〜すぎる】

       「お酒を飲み過ぎる」「働き過ぎる」

       「お酒を飲み過ぎた」「働き過ぎた」

 

(3)接辞「動詞すぎ(だ)」の概念図

 

         限界点

  【動作・事態】→|【*】 (静的な視点)

            ↓

       『程度が(限界点)を過ぎた結果(=過ぎた状態)』

       【〜すぎ(だ)】

       「お酒の飲み過ぎだ」「働き過ぎだ」

      *「お酒を飲み過ぎた結果が表れている状態だ」

      *「働き過ぎた結果が表れている状態だ」

 

「形容詞すぎだ」モダリティ論(本論)

 

※(前置き)からの続きです

 

■この概念図から読み取れること

 

 上の概念図が示すように、「〜すぎる」→「〜すぎ(だ)」の転成は動的な視点から静的な視点への転換です。(3)の※に書いていてあるように、「動詞すぎだ」は「動詞すぎた結果の状態」を表しています。ですから、考え方としては、動詞の場合は、まさに動詞であるがゆえに、その転換が無理なくできるのに対して、形容詞の場合は、既に静的なものであることが、第一に「形容詞+すぎだ」を不自然に感じさせる原因ではないかと推察できます。

 

 形容詞の場合は“既に”それ自体が静的(な状態を表すもの)です。つまり、形容詞は「〜すぎる」の形式で、既に程度が限界点を過ぎている“状態”であることを表しているため、それを“さらに”静的な視点で結果の状態を『切り取る』という作業をすることは無意味です。すなわち、「〜すぎる」→「〜すぎだ」を【動的なもの】を【静的なもの】に転換する作業だとすれば、動詞はそれができても、形容詞の場合は、【静的なもの】をさらに【静的なもの】に転換することになるため、それはできないのです。できないというよりも、それをする“必要がない”といったほうが適当でしょう。「形容詞すぎる」でもう【静的なもの】を表しているのですから。それをさらに「〜すぎ(だ)」で【静的なもの】に変える作業は要りません。

 

■できないことをする/しなくてもいいことをするには

 ワケがある

 

もともと「〜すぎる」→「〜すぎ」という転換ができない(:正確にはする必要がない)形容詞を、なぜ「〜すぎだ」という形式で使うのか。使うからには理由があるはずです。そこで、考えられるのは、動詞の「〜すぎだ」がもっていた特徴を形容詞にも“当てはめて”使うことによって、話者の心的な態度を表そうとしているのではないかということです。

 

動詞の場合は、「〜すぎだ」は「〜すぎた結果の状態」について言及する場面で使われます。

※もちろん、概念化できる動詞の場合は、原因として使うことも可能です。(飲み過ぎで肝臓を悪くした)

これを“拡張”すれば、形容詞の場合でも、何かを見たとき(示されたとき)その現場に、なんらかの、その程度が限度を超えた結果の状態を認めて、驚いたり、困ったりする気持ちを表すことができると考えられます。(これが「形容詞すぎ(だ)」を使う動機付けになっていると思います)

 

この考え方に従えば、「暗すぎだ」は客観的に「暗すぎる」状態を述べているのではなく、『その現場で、その限界を超えた結果(状態)に対する話者の直截的な感情の表明』だと考えるのが適当だと思います。

既存の文法の枠組みとの対比で考えれば、(若者が)「形容詞すぎだ」という使うときの心的態度は【 】に書かれた内容でしょう。

(ア)「ああ、これじゃ、暗すぎるよ【これじゃ、何もできないよ。困っちゃうな】」

(イ)「ああ、これじゃ、暗すぎ!」

   「ああ、これじゃ、暗すぎだよ!」

既存の文法では(ア)のようになるはずですが、【 】の部分(=話者の態度)を含む形として(イ)が使われていると考えられます。「形容詞すぎ(だ)」の使われ方を観察すると、このようにモダリティの要素をもったものが多いのではないでしょうか。

ですから、「現場性」がない使い方(通常の概念化された名詞としての使い方)である(ウ)は自然さが落ちます

何か話し言葉がと書き言葉が混在しているような印象を受けます。全体を話し言葉調にすれば大丈夫でしょう。主観を入れるために、状況は「あの」より「この」のほうが自然さが増すでしょう。

(ウ)?「あの地区は暗すぎだ。電灯を設置する必要がある」

   ○「この地区は暗すぎだ。電灯を設置しなきゃだめだ」

 

■まとめ+雑感

若者はよく言えば「感性」で物事を直截的に効率的に言葉にします。「彼女、かなりおやじが入っているんじゃない」なんか、私のような中年おじさんが聞いても「感性に訴える(?)」ものがあります。その感性の発揮のされ方は異なりますが、「形容詞すぎ!」も若者の感性が発揮された一例ではないかと思います。

文法からして、「〜すぎだ」は形容詞には接続しにくい(/する必要がない)のに、いや、だからこそ、それを使うことで“既存の形式では表現できないものを獲得するのだろうと思います。それを生み出す原動力は、常に「話者の心的態度」だろうと思います。コトをどのように“みて”、どのように”伝達する”のか、それが既存の文型で不足していると思ったら、別な形式を使うのでしょう。これも言葉は生きているということの一側面と言えると思います。

 



ch5のトップ
ホーム