#40「〜ながら」と「〜て」の違いと接点(動詞の意味特徴とアスペクトのつながりを考える)

問題点の整理

この考察はアルクの掲示板の投稿から出発しています。
通常初級では『二つの動作を同時に行う』場合には「〜ながら」を使って、動作の結果・状態の場合には「〜て」を使うように指導がされます。

「お茶を飲みながら新聞を読む」
「ソファーに座って新聞を読む」

ここで2つの疑問が生じます。
【1】「座りながら」とは本当に言えないのか?
    いわゆる<瞬間動詞>と呼ばれる動詞は「〜ながら」が使えないのか?
【2】逆に『同時進行』の意味では、<継続動詞>は全て「ながら」を使うのか?
【3】「ながら」も「テ形」も『二つの動作を同時に行う』という意味なのか?

テ形の用法は前件と後件の意味によって決まることはよく指摘されることです。そして前件が後件に対して従属節になる場合には例えば、<手段><原因><付帯状況>などの用法になるとされています。
「〜ながら」と用法が重なるのは<付帯状況>の部分だと思いますが、これを「ながら」の用法としての「2つの動作を同時に行う」と同列に扱うことにはためらいを感じます。
「座って本を読む」という場合に、「座る」という動作は1回のことです。(注:何度も立ったり座ったりする場合は除きます)ですから、「座る」ことと「読む」ことが『同時に行われる』という捉え方には、「お茶を飲む」と「本を読む」ことが『同時に行われる』という捉え方とは異なるものを感じます。それでいて、「座って本を読む」という文ではある種の『同時性』のようなものを感じることも確かです。まさにこのへんに「ながら」と「テ形」の接点があると考えられます。
用法が重なる部分があることは否定できません。しかし、逆にみれば、両者が言い換えができない典型的な用法があるわけですから、それを踏まえて考えれば、この二つの用法の接点も同じ意味であるとは言えないはずです。


考察のアプローチ

今回の考察では「ながら」と「テ形」の典型をはっきりさせることで、その拡張としてどこに両者の接点があるのかを考えます。 そのために従来単純に<継続動詞>と<瞬間動詞>(注:考察では<変化/結果動詞>という名称を使用)の2つに分類されているものをもう少し詳しく動詞の意味特徴を考えてみます。その過程でアスペクトという概念が動詞のどのような特徴と結び付いて発現するのかを考えます。

注:
本考察は初級クラスでの「〜ている」「〜ながら」「〜て」の指導そのものに異議を唱えるものではありません。事実、初級の授業ではまさにここで明らかにしようとしてる動詞の特徴の大きなものを拾い上げて教えていると言えます。ですから、初級の指導上それは至極当然のことであります。

※なお本考察のアプローチは<Oyanagiの勉強部屋>掲示板に寄せられた「〜つつある」に対する私のレスにも同様な意図がみてとれますので、併せてご覧いただければ幸いです。


考察

1 「ながら」の考察

1−1「ながら」の典型

(1)のような事態が典型的な「2つの動作を同時に行う」ことで、「ながら」の基本的用法だと考える。これと同じ事態を「テ形」では表現できない。
典型では動詞はいわゆる<継続動詞>が来る。つまり『その動作をしながら』という意味である。

(1)「洗濯をしながら掃除をする」
   (比較:「洗濯をして掃除する」は順次動作の意味)

(1)の概念図

「洗濯しながら 掃除する」 ●『洗濯する』◯『掃除する』
               ===は動作の継続
      【〜ながら】
 −−−−|==●==|−−−−→ (時間の流れ)
 −−−−|==◯==|−−−−→
     ↑     ↑
    開始     終了

1−2「ながら」の拡張
1−2−1<変化/結果動詞>の下位分類

ところが典型から少し離れると(2)のような事態も「ながら」で表現できる。
これらの動詞はいわゆる<変化/結果動詞>に分類されるものの中でちょっと変わった振る舞いをする動詞である。

第一に、アスペクト形式の「〜続ける」と言うことができる。
第二に、動作主体が<身体上の変化>をすることである。

このタイプの動詞群は事態の成立は<変化>なのだが、「〜続ける」と言えるということは『その事態が成立した後もその状態を続ける』ということが表現できる点でユニークな動詞である。
(1)の典型が『動作を続ける』ということで「ながら」が使えるのに対して、(2)はこのような「〜続ける」と言える特徴をもつことによって『(成立した変化の)状態を続ける』ということで「ながら」が使えるとことになる。

つまり、(2)のタイプの動詞は<変化が成立するまでの過程>(:下の概念図のX)を取り立てるのではなく、<変化が成立したあとの状態>(:下の概念図のY)を取り立てることで「ながら」が使えるのである。

※例えば「煙草をくわえながら」が意味するスペクトは「くわえる」という動作の部分(:物を口のところにもっていってはさむまでの動作)の部分ではなく、その動作によって成立した変化の状態の部分を取り立てて「ながら」を使えるということである。

その一方で、(2)の動詞は主体に関して<変化/結果動詞>であるから「テ形」によっても『(成立した変化)の状態』を表せる。つまり、同じような事態を「テ形」を使って表すことが可能である。つまり、ここが「ながら」と「テ形」の接点である。

この<身体上の変化>という意味特徴をもつ動詞群はさらに

(2)−1<身体の部位の変化
(2)−2<身体の姿勢の変化
(2)−3<身体の位置の変化

に下位分類される。この下位分類の意義は<身体上の変化>における<変化>がどのようなものかによって「ながら」と「テ形」の許容度が変わるということである。
1、2までは「ながら」が自然に使えて「テ形」との交代も可能だが、3になると「ながら」の使用にはかなり語彙的、文脈的に制限を受け、「テ形」による表現とも意味の違いが強く感じられる。(:下の【比較】に示した)

(2)の概念図

「煙草をくわえながら 歩き回る」 ■『くわえる』□『歩き回る』
                 +++は動作の結果・状態の継続
     ※事態(変化)の成立「くわえる」
     ↓【〜ながら】&【〜て】
     X  Y
 −−−−|++■++|−−−−→(時間の流れ)
 −−−−|==□==|−−−−→

1−2−2 <身体の部位の変化>を表す動詞

(2)−1は統語上は「ヲ格」をともなっており他動詞であるが、『働きかけた対象そのものというよりは主体が変化する』と言えるものである。

※例えば「煙草をくわえる」では『くわえる』という動作によって煙草が変化するのではなく、主体の口の状態が変化するとみる。以下の例も「主体の目」「主体の口」「主体の手」「主体の身体」の「変化」であると関がられる。
※同じ対象に関して<変化/結果>動詞であっても「壊す」や「割る」などが動作主体ではなく対象が変化することと明らかに異なる。 つまり、『その対象に働きかけて(その動詞が意味する)事象が成立した(=主体が変化した)あともそれを続けながら』という意味である。

(2)−1a「煙草をくわえながら歩き回る」
      →「煙草をくわえて〜」
     b「目を閉じながらこれまでのことを振り返る」
      →「目を閉じて〜」
     c「ガムを口に含みながら話しを聞いている」
      →「ガムを口に含んで〜」
     d「相手の手を握りながら必死に頼んだ」
      →「相手の手を握って〜」
     e「恋人の腕にしがみつきながら震えていた」
      →「恋人の腕にしがみついて〜」
     f「頬杖をつきながら話を聞いている」
      →「頬杖をついて〜」

 注:d,e,fは次の(2)−2とのボーダーに位置する動詞だと思われるが、1に入れておく

1−2−3 <身体の姿勢の変化>を表す動詞

さらに(2)−2では自動詞で、主体について<変化/結果動詞>となるものである。
このグループの動詞の意味的特徴は<姿勢の変化>である。

(2)−2a「ソファーの上に横になりながらテレビをみている」
      →「ソファーの上に横になって〜」
     b「壁に寄りかかり/もたれながら話をしている」
      →「壁に寄りかかって/もたれて〜」

1−2−4 <身体の位置の変化>を表す動詞 さらに(2)−3では4と同様に自動詞で身体についての変化を表すが、姿勢ではなく<位置の変化>という意味的特徴をもつ動詞である。

注:a,b(「立つ」「座る」)は上の(2)−2とのボーダーに位置すると思われるが、その場所への<移動>も含意されるのでこのグループに入れておく。

(2)−3a「山の頂上に立ちながら人生の意義を考えてみた」
      →「山の頂上に立って〜」
      【比較】×「駅前に立ちながら友達を待った」
          ◯「駅前に立って友達を待った」
          ×「立ちながら話してください」
          ◯「立って話してください」
     b「こんなゴージャスな椅子に座りながら飲むワインは格別だ」
      →「こんなゴージャスな椅子に座って〜」
      【比較】◯「椅子に座りながらふと天井を見上げてみたらた・・・」
          ×「椅子に座りながらテレビを見た」
          ◯「椅子に座ってテレビを見た」
          ×「座りながら待っていてください」
          ◯「座って待っていてください」
     c「お風呂に入りながら今日あったことを反省した」
      →「お風呂に入って〜」
      【比較】×「部屋に入りながら今日あったことを反省した」
          ◯「部屋に入って〜」
     d「故郷に帰る電車に乗りながら子供の頃のことを考えていた」
      →「故郷に帰る電車に乗って〜」
      【比較】◯「電車に乗りながらふと外の景色に目をやった」
          ×「電車に乗りながら本を読んだ」
          ◯「電車に乗って本を読んだ」
          ×「電車に乗りながら新宿に行った」
          ◯「電車に乗って新宿に行った」

2 「テ形」の考察

2−1「テ形」の典型

一方、テ形による<付帯状況>というのは典型的には(ア)のように主節に動作の『様態(ある側面)』を述べるものである。「急ぐ」(「歩く」「走る」)は主動作である「渡る」と別の事態を表すのではなく、主動作の側面を表している。これは「ながら」では表現できないことである。

(ア)「橋を渡る」という動作について
    →副詞「ゆっくり橋を渡る」
    →テ形「急いで橋を渡る」
       「歩いて橋を渡る」
       「走って橋を渡る」
       (比較:×「急ぎながら/歩きながら/走りながら〜」)

2−2「テ形」の拡張

そして、典型から少し離れると(イ)のように別の事態を表しながらも主動作『様態(ある側面)』を述べるものになる。この場合には「ながら」を使うことが可能になる。ここが「ながら」との接点である。
また『様態』は(ウ)のように別の用法である『手段』の解釈とも繋がっていきます。

(イ)「橋を渡る」という動作について
      A「手をつないで橋を渡る」
      →「手をつなぎながら〜」
     「まっすぐ前を向いて橋を渡る」
      →「まっすぐ前を向きながら〜」
    B「手を振って橋を渡る」
      →「手を振りながら〜」
     「笑って橋を渡る」
      →「笑いながら〜」

(ウ)「橋を渡る」という動作について
    どうやって渡る?
    「歩いて/自転車に乗って橋を渡る」(「手を振って合図する」など)

3 両者の接点を考える

こうしてみると、「ながら」と「テ形」は(2)と(イ)で接点があるが、結果的に同じような意味を表すにしてもその捉え方は異なると言える。

                       【主動作とその手段】
                           ↑
【主動作と平行する副動作】→ →<接点>← ←【主動作とその様態】(←【順次動作】)

  「〜ながら」      「〜ながら/〜て」   「〜て」      「〜て」
               『主体の変化』

この<接点>は【主動作の背景で進行する事態】と言える。
この共通する(2)と(イ)−A動詞の特徴は先に触れたように「〜続ける」が言える主体についての<変化/結果動詞>である。 「〜続ける」と言えるという特徴によって典型である『動作を継続しながら』に準じて『(動作して成立した結果の状態を)継続しながら」ということで「〜ながら」が言えと考えられる。
一方、これはもともと<変化/結果動詞>であるから、「テ形」を使って<動作の結果・状態の継続>となり『様態』を表すことができると考えられる。もちろん、その大元には<順次動作>の「テ形」があって、『その動作をして(その結果)』という意味が含まれることになる。

注:(イ)−Bについて
いわゆる<継続動詞>であっても<付帯状況>として使える動詞があるようだが、あまり数は多くないようである。(『日本語類義表現の文法(下)』(くろしお出版)p.448)

4 問題点の解決に向けて

4−1 これまでのまとめ

2−2「ながら」の拡張を考えると、変化/結果動詞>であってもなんらかの<主体変化>を表すものは「〜続ける」と言うことができるという特徴をもち、それによって「ながら」が使えると言える
従来初級の指導では典型的な使用ということで、「ながら」は(1)を中心に場合によっては(2)−1までを扱い、(2)−2、3については言い換えができる「テ形」を使うほうが正しいとしてきたと思われる。
これは第一に「ている」が付いて「動作進行中」になるのか「結果状態」になるのかという判別だけで終わっているからであって、後者になる動詞をひと括りにしているためである。
これは指導上、当然のことだとも言える。確かに(2)−1、2は「テ形」で同じ事態を表現できるし、(2)−3は「ながら」の使用には制限があるので、むしろ「ながら」は使えないとしたほうが手っ取り早い。

しかし、(2)−1、2では「ながら」もかなり自然に使われていると思われるし、ニュアンスの差もある。(2)−3も同じ特徴をもつ動詞として『「ながら」も使うことが可能である』という認識も必要ではないかと考える。

4−2 <身体の位置の変化>と「ながら」の制限

最後に「ながら」の拡張でもっとも周辺に位置していて、その使用に制限がある(2)−3について、どのような制限が働くのか考えておきたい。
再度動詞とその特徴をおさえておくと、この動詞は「立つ」「座る」「入る」「乗る」などで<身体の位置の変化>という特徴をもつ動詞で、意味特徴として「〜続ける」と言える。

注:「入る」を「入り続ける」と言えるかどうかという判断は人によって異なると思われるが、「出る」が「出つづける」と言えないことと比べると「入り続ける」は多少なりとも言えそうである。
おそらくこのような自然さの違いは人間の事態の認知と関わっていると思われる。
『外→中』というイメージで捉えられるものは『その中に位置する状態がある一定時間持続する』という解釈と比較的容易に結びつくためだろう。「乗る」が「乗り続ける」と言えるのに対して「降りる」は「降り続ける」とは言えないこともそれを示している。 「立つ」「座る」は<身体の姿勢の変化>と接する概念であるために「〜続ける」が容易に受け入れられると考えられる。
以下、具体的に考察してみる。(用例は上のものを再掲)

> ☆「ながら」が可能になるポイント1

 <接点>である【主動作の背景で進行する事態】と認識できるかどうか

×「駅前に立ちながら友達を待った」◯「駅前に立って友達を待った」
×「立ちながら話してください」  ◯「立って話してください」
×「椅子に座りながらテレビを見た」◯「椅子に座ってテレビを見た」
×「座りながら待っていてください」◯「座って待っていてください」
×「電車に乗りながら本を読んだ」 ◯「電車に乗って本を読んだ」

この場合に「ながら」が使えないのは例えば「待つ」「話す」という主動作に対して、「立つ」という動作について【主動作とその様態】または【順次動作】の解釈を強く要求するためだと考えられる。つまり、「ながら」の拡張(=【主動作の背景で進行する事態】)が及ばず、『そのような位置に身を置いて』という解釈がされるために「テ形」が自然になると考えられる。
結局、これら<身体の位置の変化>の動詞では「〜に乗る/〜に座る」ことと「本を読む/テレビを見る」ことは「ながら」が典型的に表すような”二つの事態”の拡張としては認識されないということだろう。

×「電車に乗りながら新宿に行った」◯「電車に乗って新宿に行った」

これは「行く」という主動作に対して「乗る」が【手段】の解釈を受けるので「ながら」は不可である。

◯「山の頂上に立ちながら人生の意義を考えてみた」
◯「お風呂に入りながら今日あったことを反省した」
◯「故郷に帰る電車に乗りながら子供の頃のことを考えていた」

この文の自然さは人によって異なるかもしれないが、もし可能であるとしたら、上のように思考を表すものだからかもしれない。「動作」と「思考」という別次元のことを並べることで、「ながら」の拡張がされやすくなると考えられる。
先に挙げた例文「こんなゴージャスな椅子に座りながら飲むワインは格別だ」がもし可能であるとしたら、「飲む」という動詞が通常の意味ではなく「味わう」という「思考」とつながる要素を持っているからかもしれない。

◯「椅子に座りながらふと天井を見上げてみたらた・・・」
◯「電車に乗りながらふと外の景色に目をやった」

この文も自然かどうかの判断は人によって異なると思うが、「ながら」の使用は可能だと考える。
なぜ可能になるのかを考えると、「ふと天井を見上げた」のような一時点を示す主動作の場合には「ながら」の拡張(=【主動作の背景で進行する事態】)がされやすいと考えられる。そうではなく”同時に進行する”という意味では成立しにくいと言える。

☆「ながら」が可能になるポイント2

 『動作の結果状態の持続』の”範囲”を認識できるかどうか

◯「お風呂に入りながら今日あったことを反省した」
×「部屋に入りながら今日あったことを反省した」◯「部屋に入って〜」

上で触れた認知の仕方の違いが、同じ「入る」でも異なることを示している。
「お風呂」や「トイレ」で「ながら」比較的自然に感じるのは、そのような行為がある限られた時間で終了するという了解があるので、「入る」という動詞がもつ「〜続ける」と言える特徴が無理なく発揮されて、『その動作を継続しながら』という「ながら」の拡張がされやすいのではないかと考える。
また、「お風呂に入る」は「入る」の<位置の変化>の側面よりも「(風呂に)つかる」ということで<姿勢の変化>の側面が強いため自然になるとも考えられる。


まとめ

以上、<変化/結果動詞>の中にも「〜つづける」という意味特徴をもつものは「ながら」を使うことが”可能”であることを考察した。
従来は「テ形」が”正しい”とされてきた「立つ」「座る」「乗る」「入る」のような<身体の位置の変化>であっても、このような意味特徴をもつ以上、語彙的文脈的条件さえ整えば「ながら」が使えるというのが本考察の結論である。
また、<接点>にして両者の典型的な意味からして、ニュアンスの差が生まれると考えられる。

継続動詞」→「〜ながら」、「瞬間動詞変化/結果動詞)」→「〜て」という図式は初級の指導では有効であると思うが、学習者から「電車に乗りながら」「椅子に座りながら」は間違いなのかという質問を受けたときにどう対処するかということで、本考察がその資料として役立てば幸いである。

本考察はこのホームページを開設して始めて公開したファイル#1の延長にある。「〜ている」と「〜てある」というアスペクトを考える上で、動詞の意味特徴をもう少し詳しく観察して分類することが必要であるという立場に立って考察したものである。この立場は今回の考察でも同じである。


補足

アルクの掲示板できんちょさんが紹介された(#7555)和田氏の論文の考察との接点について簡単に述べておく。
私自身この論文の内容を確認していないのではっきりとは言えないが、きんちょさんが提供してくれた情報だから判断すると、「エネルギーが供給される」かどうかというのは、本考察で動詞の意味特徴として「〜続ける」と言えることと繋がっていると思われるので、互いに矛盾するものではないと考える。むしろ、「〜続ける」と言えることから「エネルギーが供給されてる」はずの<身体の位置の変化」の動詞(「立つ」「座る」「入る」「乗る」)も「ながら」が”使える可能性がある”ということを示すものであると解釈するべきである。この点が和田氏の論点とは異なるところである。


参考文献

本考察の基礎資料となったのは次の2つである。
『日本語文法 研究序説』(仁田 義雄 くろしお出版)
「〜ナガラと〜タママと〜テ −付帯状況の表現−」(三宅 知宏)
 これは『日本語類義表現の文法(下)』(くろしお出版)に収められている小論

※後者は森山卓郎氏の考察を踏まえたもので、前者の分析とは微妙な違いがみられる。本考察の分類は前者に負うところが大きいが、分析と用例は後者を参考にした。



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