#4 サービス産業で広まる「丁寧表現--ほう、から--」認知的分析

<前置き>
先ごろ文化庁が実施した「国語に関する世論調査」で「お荷物のほう、お預かりします」というかについては、全体で30.3%、10代では女性が50.4%ということで、かなり普及しているという実態が浮き彫りになっているようです。そして、文化庁のコメントとして、”ほう”という言葉は本来、複数の一方や、方向を示す意味だが、『最近は丁寧表現として転用される傾向が目立っている』とあります。
この記事に接するまえに、多くの方が、サービス産業ではやたら「気になる」丁寧表現が広まっていると感じていると思います。
まあ、その横綱的存在として「〜のほうお持ちしました」の「ほう」と、「〜円からお預かりします」の「から」ではないかと思います。なぜ、このような表現が一般に『規範的』ではないと感じながら、多くの人が丁寧な表現としてそう違和感なく使用し、また聞き流しているのかということが今回の大きなテーマです。
いわゆる『ラ抜き言葉』が言葉の乱れと言われた時代から「ゆれ」と言われるようになったのも、その変化に文法規則の統一化という大きな歴史的流れをとらえてのことだったように、「ほう」や「から」も何らかの理由があってその使用が広まっているものと思われます。



<要旨>
「ほう」がなぜ丁寧表現となるのか、ということを考察し、その結果を利用して、「〜からお預かりします」の「から」について考察する。さらに、「係まで申し出てください」の「まで」とも共通する人間の認知の仕方について考えてみる。


<「ほう」の考察>
丁寧表現とは断定を避けることによってもたらされると考えれば、対象となる者、物、ことを直接に差し示さずにそのその位置を方向によって差し示すことは十分間接的な言い方となるのだろう。
「ほう」の基本的な意味がAからDへと派生する過程で話者の丁寧化する意識が強く表われてくると思われる。

1 「ほう」の基本的な意味から「丁寧の意識」が派生する過程

 1)基本的意味<方向>
   イメージ ・--->(*)  ()内は認知の焦点にならない
   意味特徴:その方向に向けて何か動作をする。したがって、その方向にあるものに対して
        直接何か働きかけるわけではない。
   例文: 「東のほうへ向かう」
       「向こうのほうに投げる」
 

 2)派生的意味A<その方向で差し示された対象> 
   イメージ(・--->)*  
   意味特徴:その方向の帰着点が認知の焦点になる
        この派生過程Aにおいて、すでに話者が表現を丁寧にする意識が
        表われていると思われる。
        つまり、「ほう」を使わない表現と比較すると丁寧な印象を与える。
        比較:「どこにお住まいですか」「どちらへ進まれるんですか」
   例文:<場所:具体的>「どちらのほうにお住まいですか」
              「横浜のほうに住んでおります」
      <分野:抽象的>「将来はどちらのほうへ進まれるんですか」
 

 3)派生的意味B<Aの意味で方向を二者間の対立と見る>  
   イメージ:*(<---・--->)*
   意味特徴:これは派生的意味Aが二者間に適用された場合である。
        日本語の比較表現は基本的に「比較する」という行為をする際に間接的に
        対象を指示するという丁寧表現の要素が入っているとみる。
        また、対象が<物、こと:具体的>の場合よりも<人>の場合のほうが
        丁寧という意識が働いているとみられる。

   例文:<物・こと:具体的>
      「こちらよりそちらのほうがいいわね」
      「やっぱりビールは辛口のほうがいいね」
      「あぶないから歩いて行ったほうがいいよ」
      <もの・こと:抽象的>
      「営業の仕方のほうに問題があったんじゃないか」
      <人>   
      「こちらのほうこそ失礼しました」
      「私のほうがいけなかったんですよ」

     注)A<場所>とのつながる用法として
      「わたしのほうでやっておきますから」

 4)派生的意味C<複数の物から対象を直接指示することを避けるために「ほう」を使用>
   意味特徴:Bと違って、「対立する対象」をもたない。
        この段階では、対象に「ほう」を付けることによって表現を丁寧にするという
        意識が濃厚である。
   例文:<物>
      「コーヒーのほう、お持ちしました」
         注)コーヒー以外のものも注文しているお客に対して
      「ミルクのほう、お入れしましょうか」
         注)砂糖などの複数の対象から特定のものを指示
      「こちらの荷物のほうはお預けになりますか」
         注)複数の荷物がある場合

 5)派生的意味D<対象そのものを直接指示することを避けるために「ほう」を使用>
   意味特徴:Cと違って「複数の対象」を前提としない。
        この段階までくると、もやは丁寧表現と意識そのものである
 
   例文:<物>
     「コーヒーのほう、お持ちしました」
        注)コーヒーしか注文していないお客に対して
     「荷物のほう、お持ちしましょうか」
        注)荷物は一つしかない人に対して
     「お釣のほう(が/は)、325円になります」    

2 「ほう」の丁寧表現と認知のつながり

 対象を直接的に指示せずに、<方向>を意味する「ほう」を使用して、その方向の先にある「もの」「こと」「ひと」などを間接的に指示するという手段がとられている。
つまり、「対象は話者の視線/意識の向かう先に存在する」という認知の仕方を示した例であると考えられる。日本語ではその対象そのものを直接取り立てるのではく、その対象に向かう「視線/意識の方向」によって取り立てることで、対象を間接的に指示することができ、それが丁寧な表現として利用されていると考えられる。
再度、その派生の過程を同じ名詞につけて例文とともに示せば明らかになるだろう。
1)あちらのほうへボールを投げる。
2)あのお客のほうにボールを投げる。
3)あのお客のほうに非がある。(こちらは悪くない)
4)どこがやってもいいんだけど、今回は山田さんのグループのほうでやってもらおう。
5)お客のほうは何人くらい入られたんですか。

3 「ほう」のまとめ

以上、「ほう」についてまとめると、話者と対象との位置関係に視点を当てて、その対象に至る視線・意識の方向によって対象を取り立てることによって丁寧化していると言える。
これを通常の「対象指向」に対して『方向指向』と名付ける。



<「まで」の考察>

通常、動詞「申し出る」は対象を表わす「に」をとり、「係(のほう)に申し出てください」となるが、「まで」を挿入して、丁寧化することがある。(注)この表現が丁寧かどうかは判断が分かれるかもしれない。

1「行く」「来る」の通常の叙述文に使われる場合
   「まで」は格助詞として起点を表わす「から」と呼応して、移動の限界点を示す用法が
   基本である。
   例:「毎朝家から学校まで歩いて行く」

   この文から「から」をとって、「毎朝学校まで歩いて行く」も自然な文である。
   しかし、この文から「歩いて」をとって、「毎朝学校まで行く」という文は単独ではなんとも
   落ち着かない文である。通常は「毎朝学校に行く」が自然な文だろう。

   この不自然さは助詞の「まで」と「に」の基本的な違いから来るものである。
   「に」は移動の目的地をマークし、「まで」は始点の「から」を意識しながら
   終着点をマークする。そのために「まで」は終着点に至る道筋が強くイメージされる。
   そのために、様態の「歩いて」が付くと「〜まで行く」はごく自然な文となると思われる。

 2「行く」「来る」が依頼で使われる場合
   例文A:「明日本社ビルの3階の事務所に来てください」
     B:「             まで来てください」

   AとBを比べるとBのほうが丁寧な表現となる。
   その理由は1)でみたように「まで」は<終着点に至る道筋>が強くイメージされるからと
   思われる。
   つまり、「まで」が格助詞として、地理的な終点のマーク(限界点の提示する)することから
   心理的な視線の移動をイメージする(視線移動のスキーマを使う)ことによって相手の移動の
   経路をなぞることによって相手に対する配慮の気持ちを示すことになるのではないだろうか。
   その結果、表現効果として『わざわざ足を運んでもらう』という意味合いが生じると思われる。
   
 3 移動以外の動詞で「まで」が使われる場合

   「伝える/連絡する/知らせる/届ける」などの動詞は「〜に〜する」という言い方とは別に
   「〜まで〜する」という表現があり、下の例文に示したように、それは丁寧な表現となる。

   例文A:「わかったら担当の山田さんに知らせてください」
     B:「            まで知らせてください」

   その理由は基本的に2)と同じと考えられる。
   「知らせるために・・・のところまで足を運ぶ」ということで、「〜に知らせる」と
      言ったときに喚起される「知らせる」という直接的な行為を弱める働きをしているように思う。
   つまり、ある行動をとることを依頼する場合に、直接的に相手に明言することを避けるために
   「まで」を使って、その場所まで足を運ぶという経路だけを特に際立たせることで表現全体が
   丁寧に聞こえるのではないだろうか。

 4 「まで」のまとめ

   このように「まで」を使った丁寧化を見ると、1で扱った「ほう」による丁寧化と共通する
   ものが見えてくる。
   「ほう」は<方向指向>による丁寧化であり、「まで」は<経路指向>による丁寧化と言える。
   つまり、どちらも対象そのものを取り立てず、それに向かう<方向>や<経路>を際立たせる
   ことによって、丁寧な表現に仕立てているのである。



<「から」の分析>

 「ほう」と「まで」は統語的には「ほう」の挿入、「まで」の「に」との交替という現象であるが、なぜそのうような挿入や交替が起こるかというと、そこには人がある行動をある対象に働きかけるときに、その対象そのものを取り立てるのではなく、その対象と自分との位置関係を意識して、その対象に至る<方向>や<経路>をイメージするという認知のありかたが関わっていると考える。

 このような認知は言わば二者間のミクロ的な認知の在り方であるが、「〜からお預かりします」の「から」にはもっとマクロ的な認知の在り方が関わっていると思われる。

 1 <台本認知>について

   日本語教育の教授法にはいわゆる「シラバス」というものがあって、その中の代表的なものには文型を積み上げていく「構造シラバス」と言語の表現機能と視点で「機能シラバス」、そして、ある場面での会話の表現機能という視点で「場面シラバス」とうものがある。
<台本認知>というのは簡単に言えば、「場面シラバス」とつながるものである。例えば、レストラン
での会話を考えようとしたら、10人いたら、10人とも異なる会話(文型)が出てくることはまずないだろう。つまり、私たちの頭の中にはレストランでは「こういうことをする」という内容が<台本>のように書き込まれているからだ。チップを渡す習慣のない日本人がアメリカなどに行って戸惑うのは日本人のレストランの<台本>にはそのような書き込みがないためである。

 2 買い物についての<台本認知>

このような<台本認知>は社会生活をするうえでは不可欠なものである。その中に「買い物」の<台本認知>もある。その台本の最後の方に、「レジでのやりとり」についての部分が書き込まれているわけである。それは大まかに言って次のようになっていると思われる。

 1)商品をレジカウンターに持って行く
 2)レジ係が商品の値段を計算して合計を出す。
   A「(お代は)(全部で)2450円でございます/になります」
   B「(お代を)(全部で)2450円頂戴します」
 3)代金を支払う
   「1万円でお願いします」
 4)レジ係がお金を受け取る
   「1万円お預かりします」
 5)レジ係がお釣の計算をする
   (1万円から商品の代金をひいて、お釣は7550円だ)
 6)レジ係がお釣を渡す
   「(お釣のほう)7550円のお返しです/になります」

ここで問題となるのは4)の時である。4)の表現に省略されているものを2)〜6)の台本から補うと次のようになる。

「(1万円から)(お代を頂戴します。)
 (お釣をお渡しするまで)(この)1万円(を)お預かりします」

この文を見ると、問題文の「1万円お預かりします」は始めの『1万円』と最後の『お預かりします』が
いっしょになってしまっと見ることもできる。
実際そうなのだろうと思われるが、なぜそのようなことが起こったのかはこれだけでは説明できない。
つまり、「1万円お預かりします」と言えばいいのに、なぜ「1万円から」と言うのか。
その理由は表現を丁寧にしたいという欲求から「から」を使ったと考えるのが自然である。
それではなぜ「から」を使うと丁寧になるのか?
ここにも1、2で考察した丁寧化の原理が働いていると思われる。

そこで、もう一度1、2の内容を復習するために次のようにイメージを図にしてみる。

 <話者>・----------->*<対象>
 <相手>  <方向>「ほう」を使った丁寧化
       <過程>「まで」を使った丁寧化
 
そして、買い物の<台本>では「まで」とは反対に、お金という対象を直接取り立てることを避けるために、1万円をお釣の『出どころ』として捉えて「から」を使ったものと思われる。

 <1万円>・-------->*<お釣>
       <出所>「から」を使った丁寧化

 3<「から」を使った丁寧化>

このように日本語では対象を直接取り立てる「が」「を」「に」などを使用せずに、物事や人びとの位置関係からその行為の移動の<方向><過程><出所>を示すことによって間接的に対象を取り立てる用法があり、その用法が成立するのは、他ならぬ人の認知の在り方と深く結び付いていると言える。

「から」のこのような用法には、他に「お父さんから言ってやってくださいよ」などの「から」なども直接丁寧化と結び付くものではないかもしれないが、つながりがあると思われる。
比較:「私が注意しておきます」(いたずらをした学生に)
   「私(のほう)から注意しておきます」



<分析を終わっての感想>

私自身「〜からお預かりします」の「から」は雑誌でそれを指摘するものを読むまで気が付かなかった。つまり、何も不自然に感じていなかったことになる。そして、注意してレジで聞いていると、その使用は驚くほど広まっていたこに愕然とした。なぜ、私は「から」に気が付かなかったのか。この怒りにもつながる思いが今回の分析の強い動機になっている。
「から」だけでなく「ほう」と「まで」とを統一的に扱ったという点で今回の分析は、その内容の妥当性は別として、それなりに意義があったとのではないかと思う。



<参考文献>
1 『日本語学のみかた』(アエラ ムック/朝日新聞社)の中にある
  コラム『気になる日本語(〜から お預かりします)』(小倉良之)
  :この記事は「から」の発見のきっかけとなったものです。
2 『月刊日本語97年10月号』(アクル)の中にある
  コラム『日本語教師のための日本語入門(言葉の意味)』(国広哲弥)
  :この記事から認知的な見方で丁寧な表現を分析する手法を学びました。
   特に「から」の<台本認知>についてはこの記事の内容に負うところが大きいです。
   また、「ほう」の意味特徴についてもこの記事の分類を参考にしました。
   しかし、私の分類とは若干異なります。
3 『認知言語学の基礎』(河上誓作/研究社出版)
  :この本は認知言語学の基本的な知識を得るのに役立ちました。


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