#3 「寝る」は天婦羅か? 「自動詞+てある」について

Shujiさんスペイン語の再帰代名詞の情報ありがとうございます。私自身遠い遠い昔、大学でフランス語を第二外国語で勉強したときに、ずいぶん回りくどい言い方をするものだなと思ったものでした。「他動詞が再帰代名詞をつけて自動詞のようになる」というのは本当に驚きでした。やっさんの言葉を借りれば「身につける系の動詞」の振る舞いは、この再帰性をもう少し勉強しないと十分理解できないと思いました。
さて、Shujiさんが自動詞も「てある」がつく例として挙げられた『寝る』という動詞についてですが、
Shujiさんの考えをまとめると、
1)「着る」は自動詞的な他動詞である
2)自動詞にも「てある」がつく(例えば「寝る」)
3)この場合、自動詞の「ている」と「てある」は意味が異なる
4)前者は<経験>の意味
5)後者は<すべきことを済ませている」と確認する意が濃厚>

以上の5つになると思うのですが、間違いないでしょうか。
私もこのような考え方で説明するのも一つの方法だと思います。

私が先に書き込んだ「合わせ技」の考え方も、出発点と結論の部分は同じなのですが、
2)3)でちょっと違う視点からアプローチしたいと考えています。
ここで、重要なことは、「てある」は「他動詞」につくという原則です。
ですから、2)のような前提で結論を出すのではなくて、あくまでも、
「てある」は「他動詞」という原則を貫くという視点で説明できないかと思うのです。

つまり、Aのような前提を、B、Cのように言い換えてみたらどうかなと思います。
A「自動詞」でも「てある」が付くから、自動詞的な「着る」も「着てある」の形がある
B「自動詞」と言われるものでも、「他動詞」のように『見る』ことができれば
  「てある」が付く。
C この点で、自動詞的でありながら他動詞である「着る」と共通点が生まれる

まず、2)の自動詞の例は非常にまれなことです。『基礎日本語辞典』でも「寝る」「休養する」「泳ぐ」の3例で、”原則として自動詞につかない”と記述されています。「てある」は本来「対象に働きかけ、その対象が変化すること」を受けて使われる表現なので、原則他動詞という考えは正しいのではないでしょうか。

「寝る」と「休養する」はそれぞれ『睡眠ヲとる』『休養ヲとる』という捉え方で他動詞のように認識されるので、「てある」が使えるのではないでしょうか。たとえてみれば、「寝る」は構文上<自動詞>の衣もまとった天婦羅で、その中味は<他動詞>なんだ、というところでしょうか。
この考え方に従えば、「回答する」は『回答を出す/与える』と捉えて、「てある」が使えるはずです。

例)「その要求に対して回答する」-->「その要求に対して回答してある」

「泳ぐ」はどうして「てある」が使えるのでしょうか。
これは「寝る」などとは少し異なるのではないかと思います。「寝る」などは内在する意味を他動詞のように認識することができますが、「泳ぐ」にはそのような内在された他動詞の認識はないと思われます。したがって、「寝る」に「てある」がつくのは全く<文脈依存>によると思います。この<文脈依存>は『基礎日本語辞典』に記述があるように、『前もって準備、結果の蓄積』というものです。このように動詞自体は自動詞なんですが、その行為を他の事態を結び付けるための働きかけのように認識することが他動詞的に捉えることにつながっているように思われます。
このような文脈を与えれば、<主体運動>の自動詞もそれほど不自然さがなく、「てある」が使えると思います。
例)「このコースは2、3回走ってあるから、戸惑うことはない」

まとめ

「てある」は動作性の他動詞について、その結果・行為の結果が現存するという具体的な状況を添える(『基礎日本語辞典』より)

「てある」が付くかどうかはこの意味特徴を、動詞がどの程度表わすかによると思います。
1)から4)にいくにしたがって<動詞本来の意味特徴>以外に<文脈依存>の要素が必要となります。
1)が「テアル」の典型的使用で、
2)は多少、3)はかなり<文脈依存的>で、
4)が「テアル」の<臨時的借用>となる
5)ではもはや「テアル」は不可能となる

1)<主体運動><対象変化>の他動詞 
   「太郎は窓を開けた」-->「窓がガ/ヲ開けてある」
2)<主体運動>の他動詞
   「太郎は資料を読んだ」-->「資料ヲ読んである」
3)<主体運動>の自動詞
   「太郎はたっぷり寝た」-->「たっぷり寝てある」
   「太郎はたっぷり走った」-->「たっぷり走ってある」
4)<主体運動><主体変化>の他動詞
   「太郎は服を着た」-->「服は着てある」
5)<主体変化>の自動詞
   *「テアル」は不可能、「テイル」を使うしかない
   「太郎は死んだ」 -->「太郎は死んでいる」



分析を終わってみて感想

この「てある」は認知言語学を勉強し始めた私にとってとても興味深い課題でした。
「寝てある」や「着てある」など、自分では一回も聞いたことも、使ったこともない表現がなぜ、自然に感じる(場合がある)のかということが出発点でした。
私たちは頭の中でただ単純にこれは「他動詞だから」とか「自動詞だから」という分類で文を生成しているのではなく、「他動詞らしさ」「自動詞らしさ」という概念で対象を捉えているからこそ、文法として記述したときに<例外>のようなものが出てくるのだろうと思います。しかし、それは当然のことで、日本語教育の現場ではその教育上の配慮から<典型的>なものを中心に教えることになるのだろうし、しかし、現実はそのように<典型的>なものばかりで私たちは現実の世界を捉えているわけではないのだと思いました。



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