#28「〜のです」の統一的解釈を試みる

考察の目的

「〜のです」の基本的用法は何か?
「〜のです」の用法を参考書などから拾ってみると、<説明>であるとされていることが多い。しかし、広く用法を観察すると、「早く行くんだ!」のような<命令>もある。形容詞文などで「山田さんの家は大きいんです」などは<説明>と言えるのか?これは<強調>なのだろうか?
従来<説明>であるとされていた「〜のです」の用法をこのような<命令>や<強調>の用法も含めて統一的に説明してみるというのが本考察の目的である。

それは「〜は〜だ」という判断文に求めるのが自然であると考える。
つまり何か<主題>になるものがあり、それについて<判断>を下すという文型である。
<主題>というものをたてる以上、それは<談話>文法の領域である。
つまり<既知>のものごと/情況に対して、話者がなんらかの<判断>を下すという構造になっている。
<説明>という用法のために従来はモダリティを表すとされていた「〜のです」は談話の構造のなかで考えなければその基本的な用法は見えてこないはずである。



考察

☆談話の展開と「〜のです」の基本的用法

ある談話Xの展開を考えると、次のような流れが想定できる。

1)談話Xの開始:ものごと/情況(x)の提出
 (xに対して課題x*が設定される)

2)談話Xを完成する作業課題x*を解決する作業)(→注1)

  (ア)<課題x*=xをどう解釈すればいいか>を解決する/確定する(求心的展開)
     A)x*:xはxであると解釈する
     B)x*:xはyであると解釈する
  (イ)<課題x*=xに不足していた情報は何か>を解決する(遠心的展開)
     C)関連情報x+(いつ/だれが/だれと/どこで・に/何を、など)を補充する
       x*:x+・・・
     D)背景情報z(なぜ)を補充する (→注2)
       x*:z→x
 

注1
(ア)と(イ)は必要に応じて繰り返す。また(イ)からスタートすることもある。
(ア)→(イ)→(ア)・・・・
(イ)→(ア)→(イ)・・・・

3)談話Xの終了
 

「〜のです」は1)と2)をつなぐ(=結束性)役目を果たしていると言える。それが「のです」が談話文法の結束性を示すマーカーであるということである。つまり、設定された課題が<主題>となり、(それは文に現れないこともある)その課題を解決するために述べられた文が「〜のです」ということになる。
ということで、本考察では「〜のです」の基本的用法を次のように定義する。
 
談話を完成する作業において設定された課題を解決する時に、課題とその答えの両者の結束性をマークする

注2
(イ)をAとBの二つに分けるのは次のような理由による。
「いつ行きますか」は「のです」が入らなくてもさほど不自然ではないが、「なぜ行きますか」は「のです」が入らないと非常に不自然である。
一般的に初級の練習では「なぜ〜ますか」の文が使われるが、実際の会話では不自然である。
この不自然さはAは<関連情報>で単文を構成する要素であるが、Bは<背景情報>で複文を構成する要素であることが原因だと考えられる。複文であるからよけいに結束性をマークする「〜のです」が要求されるものと思われる。

☆談話の結束性のマーカーについて

結束性をわざわざマークする文法標識があるというのは日本語の特徴の一つと考えられる。
例えば、英語で次のような会話があったとすると、それを日本語の会話に置き換えてみるとその違いがはっきりする。
(1)A:I bought a car last week. 
   B:Oh! you did.        
(2)A:I'm going to the U.S.A .  
   B:When do you leave Japan? 
(3)A:I won't go to the party.  
   B:Why?
   A:(Because)I have the previous engagement.
(1)A「先週車を買いました」
   B「へえ、(車を)買った『ん』ですか」
(2)A「(今度)アメリカに行きます」
   B「いつ行く『ん』ですか」
(3)A「パーティには行きません」
   B「どうして行かない『ん』ですか」
   A「ほかに約束がある『ん』です」

このように日本語には『んです』が現れるのはなぜか?
会話では話者の気持ちが入るからだとするのは表面的な観察にすぎない。事実『んです』を抜いた文は非常に不自然になるが、それは感情が入るかどうによって決まるものではない。
談話を展開するにあたって、上にみたように、お互いに提出された情報を確認しあい、足りないものは補いあうが、日本語ではその際に文と文(情況と文)が関連しているということを明示することが必要なのである。
そうすると、確認するべきものごと/情況や補うべきものごと/情況が<主題>として課題設定され、その課題の答えが「〜のです」によって述べられることになる。

☆「〜のです」の図式と具体例

以上のことを図式化すると次のようになる。

例1)言葉による提出(動詞文)の場合

1)談話Xの開始:ものごと(x)の提出

  「今度アメリカに行きます」

2)談話Xを完成する作業
  ア)
   A)「へえ、アメリカに行くんですか」
     「ええと、アメリカに行くんですね」
   B)「へえ、じゃあ、いよいよ海外へ行くんですか/ね」

  イ)
   C)関連情報の補充
     「いつ/だれと/アメリカのどこに/ 行くんですか」
     「来週/友達と/ニューヨークに/  行くんです(ね/よ/か)」
   D)背景情報の補充
     「なぜアメリカに行くんですか」
     「友達に会いに行くんです(ね/よ/か)」

3)談話Xの終了
 
    「そうですか、いいですね。お土産待っていますよ」

例2)情況による提出の場合

1)談話Xの開始:情況(x)の提出

  (相手がうろうろしている)情況

2)談話Xを完成する作業

  ア)
   A)※言葉がないのでこれはない
   B)「どうしたんですか』(→注3)
     「何か探しているんですか/ね」

  イ)
   C)関連情報の補充
     「何を探しているんですか」
     「コンタクトを探していいるんです(か/ね/よ)」
   D)背景情報の補充
     「どうしたんですか」(→注3)
     「なぜ落としたんですか」
     「人にぶつかって落としたんです(か/ね/よ)」
 

注3
「どうしたんですか」がどこに分類されるかは定かではない。
与えられた情況から「この情況は何を意味しているのか」という課題を解決するということではB)になり、「どうしてこんな情況になったのか」という課題を解決するということではDとなるだろう。

3)談話Xの終了
 
    「そうですか、大変ですね。いっしょに探しましょうか」

☆従来の用法の区分との比較

これまで日本語教育の現場では「〜のです」は理解のしやすさという点からDの用法を取り上げて<理由/背景説明>であると教えたり、もう少し広くとらえて、Cも含めて(イ)を<補充説明>として扱われてきたように思われる。また、Bの用法をDの<背景説明>に対して<帰結説明>として扱うこともあるかもしれないが、どちらにしても<説明>というモダリティとして扱われてきたようだ。

しかし、形容詞文で「山田さんの家はとても大きいんです」の「のです」は何か?と問われて、これを<説明>の文だとは言いにくいので、<強調>であると教える。そのために「のです」が強調のように話者の感情が入るときに使うという誤解が生じることになる。
確かに、初級での指導上の配慮という点から形容詞文の場合に<強調>という用法をたてることは一概に間違いとは言えないが、「のです」の本質を見誤ってはいけないと思う。ちなみに形容詞文は「これは鞄に入りません。とても大きいんです」のようにいわゆる<説明>の用法になっている場合も当然ある。

☆「〜のです」の統一的な解釈へのアプローチ

Aの用法も広い意味では<説明>になると考えれば、「のです」の用法の基本は<説明>であると考えてもいいだろう。しかし、この<説明>という概念自体は非常にとらえどころがないので、「のです」の<説明>がどのような意味での<説明>なのかはしっかり把握しておく必要がある。
私はそれを<談話を完成するために設定された課題を解決する作業>における<説明>であると位置付けたい。
人間は会話を通じて、お互いの情報の不均衡を認知し、それを補うことによって情報の均衡化を目指す。その一方で、共有された情報の解釈を確定化/確認する作業を行う。そのような作業は終助詞の「ね」と「よ」なども関わり、「のです」との共同作業によって談話が展開し完成すると考える。

なぜ「〜のです」にはいろいろな用法が生まれるのか?

用法というのは用例を観察することによって分類して命名したものである。「〜のです」がいろいろな用法をもつというのは、実は「〜のです」が談話文法の範疇であることと密接な関係があると思われる。
ある課題が設定されてそれを解決する(判断を下す)ということは、あることと他のことを結び付けることである。この結び付けるという作業はコンピュータのように規則的に行われているわけではない。それは人間の<認知>的な作業である。どれとどれがどのように結びつけられるかはその人、その情況によって様々に変化するわけである。
 

なぜ<暗示>と呼ばれる用法が生まれるのか?

1)A「どうして遅刻したんですか」
   (課題:なぜ遅刻したか)
  B「電車が遅れたんです

2)A「また遅刻しましたね」
   (課題:なぜ遅刻したか)
  B「すみません。また電車が遅れたんです

3)A「今晩パーティがあるんですけど、いっしょに行きませんか?」
   (課題:いっしょに行けるか)
  B「(すみません)今晩はデートがあるんです

一般に3)のような誘いや依頼を断わる際に出てくる「〜のです」を<暗示>の用法としているが、これは特別取り立てる用法ではなく、課題設定が場面によって1)〜3)のように違いがあるというだけのことである。
1)は相手が直接課題を設定している。2)は相手の発話から当然想定される課題である。そして3)は勧誘や依頼の発話では当然想定される課題である。

なぜ<前置き>と呼ばれる用法が生まれるのか?

上の3)の例文でAさんはBさんを誘うために「パーティがあるんですが、」と前置きしている。
相手がパーティについて知らない場合に、前置きなしに「今晩のパーティにいっしょに行きませんか」とは言えない。「のです」なしに「パーティがありますが、」は可能だが、なにかよそよそしさを感じる。この点をさして<感情が入る>とするのはどうかと思う。それはあくまでも表現効果であり用法ではない。
他には「〜に行きたいんですが、道を教えていただけませんか」などがある。

この「〜のです」は上の分類では(ア)に当たるものである。つまり、勧誘や依頼をする際にはまず自分が置かれている情況を確定する必要がある。そのために「〜のです」を使うわけである。英語ではこのようなことをマークする文法はない。このように確定する必要があると感じるところが日本語らしいと思う。
A:We have a party tonight. Would you come with me?
B:Sorry. I have a date tonight.

なぜ<強調>と呼ばれる用法が生まれるのか?

動詞文であれ、形容詞文であれ、名詞文であれ、「〜は〜だ/する」という文型はもう既に判断文である。つまり、主題に対して話者の判断が下されているわけである。そうすると、「〜のです」が設定された課題(=主題)に対して判断を下すというのと何が違うのかということになる。どちらも主題-解説(説明)になっているではないかということである。
(1)「これは山田さんの本です」
   「これは山田さんの本なんです
(2)「山田さんの家は大きいです」
   「山田さんの家は大きいんです
(3)「山田さんはいま勉強しています」
   「山田さんはいま勉強しているんです

それぞれ「〜のです」のある文は何が違うのだろうか?
一つの答は上の分類の(イ)に当たると考えることである。
つまり、それぞれ
(1)「これ持って帰っていいですか」
   「だめです。これは私の本じゃないんです。山田さんの本なんです
(2)「山田さんの家でパーティができるでしょうか」
   「大丈夫ですよ。山田さんの家は大きいんです
(3)「今、山田さんと話せますか」
   「だめです。山田さんはいま勉強しているんです

しかし通常これらは<強調>とは呼ばれないで<説明>と呼ばれる用法になる。それでは<強調>と呼ばれる用法はどんなものだろうか。
それは上の分類の(ア)に当たる場合だと思われる。
これは(3)の動詞文で考えると分かりやすい。今の山田さんの情況をどう解釈するべきかという課題が設定されている
その答えが「(山田さんは遊んでいるんじゃありません。)勉強しているんです」となるわけである。

適当な会話を想定すると次のようになる。
A「あれ、山田のやつまた遊んでいるな」
B「違うよ、勉強しているんだよ。あれも勉強の一つなんだ」
A「へえ、そうかな。僕には遊んでいるとしか見えないけどな」

(2)の形容詞文や(1)の名詞文も基本的には同じである。どのように形容するべきか、どのように属性を指定するべきかという課題に対する答えとなっている。そこが単なる判断文との違いである。
ただ、動詞文は「〜する」と「〜するのだ」という対立が明確であるのに対して、名詞文や形容文はそれだけで判断文として強く働くので、「〜のです」による課題設定とその答えという図式が目立たない。
しかしわざわざ課題を設定してそれに対して判断を下すという形式によって、結果的に「それであること」「そのようであること」が<強調>されるように感じるわけである

適当な情況の会話を想定すると次のようになる。
(1)A「これ、俺の本だろう。勝手に使うなよな」
   B「違うよ。ほら、名前が書いてあるだろう。これは山田さんの本なんだよ」
                       cf「これは山田さんの本だよ」

(2)A「さあ、山田さんの家に着きましたよ」
   B「へえ、山田さんの家は大きいんですね」
              cf「大きいですね」
   A「最近デジタル放送が受信できるテレビが発売されたそうですね」
   B「ええ、でもまだまだ高いんですよ」
             cf「高いですよ」
 

なぜ<まとめ>と呼ばれる用法が生まれるのか?

文章であれ、会話であれ、それまでに述べたことを<まとめる>ことがある。
典型的には「つまり、〜のです」という文型である。
この用法は上の分類の(ア)のBに当たる。それまで述べてきたことが課題となり、それを解釈したものが「〜のです」の文である。

なぜ<命令>と呼ばれる用法が生まれるのか?

この問題は非常にやっかいである。先の問題は従来<説明>とされてきた用法を(ア)まで広げて考えることによって「〜のです」を統一的に解釈することができたが、<命令>という用法がいかにしてこれらと結びついているのか。
「〜のです」を単に<説明>と括っていたのでは、当然<命令>と結び付きようもない。やはり、上の分類で考察したように、「〜のです」の基本を<談話を完成させる作業>であるとすることでつながりが見えてくるように思われる。

そこで、「勉強するのだ」という文を観察してみたい。

(1)「ちょっとお遣いに行ってくれない」
   「だめだよ。これから勉強するんだ

(2)「おい、見ろよ。あいつ何をするつもりだ」
   「ああ、これから勉強するんだよ」

(3)「ねえ、遊びに行ってもいい」
   「だめ、ちゃんと勉強するんだ/する

上の分類では(1)は(イ)の用法になる。つまり「勉強するので、行けない」
(2)は(ア)の用法になる。つまり「あいつがしようとしていることはどう解釈するべきか」という答えになっている。そこで、問題は<命令>とされる(3)の用法である。
<命令>というのは意志を持った主体に対して、実現していない状態から実現した状態になるように働き掛けることである。(3)であれば、「勉強していない」人に対して「勉強している」状態になるように働きかけているわけである。
そこで、改めて「〜のです」が何を<課題>に設定しているかを検証したい。

                            一般的な用法の名称
(1)→課題:「なぜ行けないか」 答え「勉強するのだ」 <背景説明
(2)→課題:(今の情況)    答え「勉強するのだ」 <帰結説明
(3)→課題:(あるべき情況)  答え「勉強するのだ」 <命令

(1)と(2)は既に解説したとおりであるが、(2)を拡張すると、(3)のように<あるべき情況>というのを設定することも可能ではないかと思われる。
先にも触れたように、談話の結束性を可能にしているのは私たちの認知的作業である、それをマークする「〜のです」である。そのような認知的作業の中に(2)のように<今の情況>を解釈して確定するという働きと、さらに(3)のように<あるべき情況>を判断して確定するという働きがあるのはないかと思われる。そのような課題を設定することによって、「そうあるべきだ」という意味で「〜のです」が使われ、結果的にそれが<命令>の用法になるというわけである



まとめ

「〜のです」が談話文法に関わるものであることはかなり指摘されていることだが、個々の用法に固執するあまり、<説明>という用法だけが目立ってきたと思われる。確かに、<説明>という用法はかなりの部分をカバーしているが、それでは一般に判断文と呼ばれる文の<説明>とは何が違うのか。またそれには当てはまらないよな<命令>はどう扱えばいいのか。<感情が入る>とか<強調>といった表現効果はどうして生じるのかという問題を考えるためには、「〜のです」の統一的な解釈(=意義素の抽出)が求められる。
今回は談話文法という基本に戻り、二つを結び付ける認知作業ということに注目することによって統一的な解釈ができるのはないかということを提案した。

談話の展開を考えると、人は提示された命題に対して、二つの行動をとる。
一つはそれがどんな意味を持っているのか解釈して、情報をウチに取り入れようとする。
もう一つはそれが情報と不十分だから補充しようとする。
前者が(ア)に当たり、後者が(イ)に当たるのだが、後者は前者が前提となり、後者はまた新たに前者を必要とする情況を生み出す、談話はその繰り返しである。それで一つの談話が完成する(と感じる)わけである。



余談

「〜のです」の用法についてはもう何年も前に日本語教育学会の大会でテーマになったときからの課題であった。その後、認知言語学を勉強しながら「〜のです」が示す談話機能を改めて考えることができた。
非常に日本語がよく話せる外国人の日本語を聞いて、非常に落ち着かない思いをしたことがある。その人は会話に「〜んです」が出てこないのである。日本人にとって、会話で「〜のです」が出てこないと不安になる。つまり、日本人にっとて、談話の展開中には「〜のです(ね/よ/か)」によって常に情報の均一化を目指して、補充や確認しながら共同作業することが不可欠である。



参考文献

(1)『モダリティの文法』(益岡隆志 くろしお出版)
   本考察の<説明>のモダリティの概念のうち、<背景説明><帰結説明>
   そして、(ア)のBのような概念を参考にさせていただきました。
(2)「特集「の」の言語学」『日本語学 vol.12(1993年10月号)』(明治書院)
   この特集には「のだ」について本も書かれている田野村氏の小論があります。
   この小論は「〜のだ」の統一的な意味に迫る内容になていますが、基本的な立場は同じですが、
   <命令>なども含む統一的な用法は本考察独自のものになっています。

※主な文献はこの2つで、何とも心細いわけですが、本考察で提案した談話の展開と「〜のです」の基本的な用法の繋がりは他ではされていないように思います。
本考察を読まれた方の率直なご意見、ご感想をお待ちしています。



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