「急ぐと、◯◯に間に合う」は不自然である。
まず、この『と』はどのような条件文なのだろうか? もし、一般的な条件文であれば、
「秋になれば/なると、木の葉の色が変わる」
「2と2を足せば/足すと、4になる」
などのように『ば』と『と』は交換可能である。また、仮定条件であっても、
「道ができれば/できると、村の生活はもっと便利になります」
のように交換可能のものもある。どうして、「急ぐと〜」は不自然で「急げば〜」は自然なのか?
さらに、否定文にして「急がないと、間に合わない」はどうして言えるのか?
まず、「と」の用法の整理をして、その中で、『ば』と『と』の違いをはっきりさせるとともに、条件文にはどのようなものがあるか、それらがどのような関係にあるかをはっきりさせる。
それを受けて、問題点を解決すべく、3つの仮説を立て検証してみた。
☆『と』の用法
「と」の用法の基本は二つの事柄を<同時的><継起的>なものとみて結び付けることである。
その際に「と」は格助詞の「と」がそうであるようにAとBを<一つのまとまり>と見るという点が特徴である。
1)個別的なこと(※過去の出来事/既定条件)
A)「部屋に入ると、服を脱いでベッドにもぐった」
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1)は既定条件と言われる文だが、Aは「〜て」と、Bは「〜たら」と言い替えができる。
Aのように同一主体の意志的な動作を結び付けることは「と」にはできても「たら」にはできない。これは「と」の<一つのまとまり>が基本的なものだからと思われる。
(ちなみに「たら」は基本的に別々の出来事を付き合わせて結び付けることが基本なので、いわゆる<発見>と呼ばれる用法でも「たら」を使ったほうが意外性が出るということになると思われる。)
このような<同時的><継起的>で<一つのまとまり>を意識することが、2)のような一般条件と呼ばれる用法につながっていくと考えられる。
2)一般的なこと(一般条件)
A)現象「春になると、桜の花が咲く」
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つまり、前件が成立したら<自動的>に後件が成立するという意識である。
2)は同じく一般的なことを示す「ば」と言い替えが可能であるとされているが、そのニュアンスは異なる。それは結局は二つの表現の思考の流れが反対だからだと言える。
『ば』は後件がどのような条件のもとで成立するか、その前件を提示する
『と』は前件が成立するとどのような事態が成立するか、その後件を提示する
結果的に『ば』も『と』も時と場合に関係なく成立する一般的な事柄を表わすが、
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『ば』はたとえてみれば、2つのピースからなる合わせ絵のようなもので、後件のピースにあう前件のピースを選び、それをはめることによって文が成立する。一度はめられたものはがっちりと結びつき、それは抽象的なレベルにまで昇華することも可能である。その具体的な形がことわざに見られる「〜ば〜」だと思われる。 |
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一方『と』のほうはたとえてみれば、祭の縁日とか駄菓子屋にあった、束ねられたひもの一本を引くとその先につている景品がもらえるようなもので、それぞれのひもは何かと結び付いていて、ちょっと引けばそれが即座に反応するというイメージである。 |
「どうすれば、〜?」とう問いかけは自然ですが、「どうすると、〜?」という問いかけが不自然になるのもこのような思考の方向性から来ていると思われる。逆に「と」は「〜と、どうなるか?」という問いかけが自然となる。
(ちなみに、小説などによく見られる接続表現として、「。すると、・・・」がありますが、この接続表現がもつサスペンスはこのような思考からだと思われます)
そして、1)が2に拡張したように、それを個人の場合に拡張すると3)のような用法が生まれる。
3)個人的なこと(習慣・習性・体質)
「(私は)お酒を飲むと、赤くなる」
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上の1)が個別的な条件文と言われるのに対して、2)と3は一般的な条件文と言われるが、1)が既に成立したこと(過去のこと)を表現しているのに対して、2)と3)は時の点では<超時>つまり、時間とは無関係に成立することである。
個別的な条件文には1)のように既定条件と言われるもののほかに、4)のように仮定条件と言われるものがある。現在未成立の事態を成立したものとみて話者の判断や意志を述べる文である。
(狭義の条件文は、この仮定条件ということになるが、伝統的に動詞の仮定形というものは「ば」となっているので、「ば」をとりあえず仮定条件を表わす接続助詞として4に紹介する。)
4)個別的なこと(※仮定条件)
A)判断表現
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☆条件文のスケール
一通り条件の用法が出たところで、それぞれの用法がどのように繋がっているかをスケール上で示してみたい。
<個別的なこと>===========<一般的なこと>===============<個別的なこと>
※個人的なことも含む 1)既定条件 2、3)一般条件 4)仮定条件 A)判断表現 B)意志表現 注1『たら』→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→ 『と』→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→★ 注3 (注2← ←)『ば』→→→→→→→→→→★→→→→→→→注4
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このスケールは人間が物事を観察して、それを言語表現に取り入れていく過程をベースにしている。
例えば、ある物を食べて死人が出たとしたら、それを観察する人にとって、始めは個別的なこととして表現される。「これを食べたら(/食べると)、死んだ。(なぜだろう?)」それが繰り返されることによって、人は知恵を身につける。つまり、経験によって帰納的にある理論が生まれる。「これを食べれば(/食べると/食べたら)、死ぬ」このようにして理論が生まれれば、それを個別の事例にあてはめることができる。同じような物を食べようとしていれば、「これを食べれば/食べると/食べたら、死ぬ(だろう)」と言えるわけである。
注1 上の記述にあるとおり、『たら』では言えない場合でも『と』が言える場合がある
注2 『ば』にも既定条件があるとする説明も見受けられるが、形の面だけ見れば確かに『〜ば〜た』で過去の事実を述べるものであるが、意味上は一般条件が過去に特定されたものとみるほうが妥当である。つまり、『ば』の既定条件は「たら」や「と」とちがって、個別的(一回限り)にはならないというわけである。
例:<一般条件(個人的な習慣)>
「帰省すると、(いつも)友達と山に登る」
→<既定条件>
「帰省すると、(いつも)友達と山に登った」
注3 『と』は上の記述にあるとおり、基本的に二つの出来事をひとつにまとめる意識があるため、前件と後件を分けて、前件に対して後件で話者の意志を述べることはありえない。
例:×「あした晴れると、テニスをしようと思う」
注4 『ば』は一定の条件のもとで後件に意志表現が可能であることは多くの参考書が示している通りである。
☆仮定条件について
そこで問題は★印の部分である。
4)の例文からわかるように、『ば』についてはその内容はもともと<一般条件>で示されるものを個別の事例に当てはめて述べたものであることがわかる。
つまり、「(一般的に)勉強すれば、いい点がとれる」だから「(あなたもこれから)もっと勉強すれば、いい点がとれる(だろう)」というわけである。
『と』についてはどうだろうか? 『ば』について言えることが『と』にも当てはまるとすれば、一般条件で「〜と〜」と言えるものは仮定条件にも使えるはずである。
例:(一般的に)急ぐと、転ぶ」だから「(あなたもいま)急ぐと、転ぶ(だろう/よ)」
同様に
「急ぐと、間違う(かもしれない)」
「急ぐと、危険だよ」
しかし、ここで注意しなければいけないのは、上の記述の2)で触れてように、一般条件でも「ば」と「と」は思考の在り方に違いがあるので、仮定条件でも場合によっては、「ば」で言えても「と」では言えないものも出てくる可能性がある。「急ぐと、◯◯に間に合う」はこの制限にひっかかっていると思われる。
そこで、改めて「と」と「ば」の基本的な意味を確認すると、
『と』は<同時的><継起的><一つのまとまり>という意味から、ひもの一方をひっぱるとそれにあわせてもう一方にあるものが引き寄せられるイメージで、つまり、自動的に成立することをひとまとまりに捉えるのが特徴であった。『ば』はどのような条件のもとで後件が成立するかという意識であった。
『と』のこのような特徴が仮定条件の成立にどのような制限を生むのか考えてみたい。
後件が明らかに前件の成立から自動的に導きだせると判断できる文脈であれば、『と』を使って<必然的結果>とし表現できる。逆に、前件が後件の前提条件のような解釈を受ける文脈では当然『ば』が自然となる。
☆検証1
「このペースで行くと、5時には全部終わりそうだ」
「このまままっすぐ進むと、海に出るはずだ」
「これからも何も食べさせないと、死んでしまうよ」
「この事実が明るみに出ると、とんでもないことになるよ」
この点でみると、「急ぐと、◯◯に間に合うだろう」という文はこのように<必然的結果>を表わす文としては成立しないようである。
その原因は「急ぐ」と「間に合う」という二つの出来事をどのように捉えるかという私たちの認識の仕方によると考えられる。
「急ぐ」と「間に合う」という二つの出来事は通常、予定している出来事が起こる時間に遅れそうな情況において、「急ぐ」ことでそれに「間に合う」ようにするという関係が想定される。つまり、普通に行動していては間に合わない情況に対して、『どうすれば、間に合うか?』という命題が設定されて、それに答えをだすという構図である。したがって、それは『ば』の思考の在り方と合致するため、「急げば、◯◯に間に合う(だろう」とするのが自然な文となる。
一方『と』によって結ばれる関係はそれとは異なるもの(反対)である。
「急ぐ」ことで、通常よりも早く着くから、予定していた事態よりも先の事態にも「間に合う」という構図が描かれるわけである。それが、『と』の思考の在り方である。
※以下はアルクの掲示板に投稿されたきんちょさんの例文を引用させていただきました。
(1)「9時半の新幹線まで あと1時間しかないよ。 ちょっと いそいでよ。」
「大丈夫。みちも すいているし。これなら楽勝だって。」 「でも…」 「なにをあわてているんだい? こんなに すいているのに。 これ以上 いそぐと、9時半どころか 9時の新幹線にも 悠々まにあうよ。」 (2)「9時半の新幹線まで あと1時間もあるからさ、のんびり いけば いいよ。」
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きんちょさんが作られた例文は先の『と』の思考の在り方を言語表現に取り入れたものである。
予定していた「9時半の新幹線」ではなく、「9時の新幹線」に間に合うという内容になっている。
つまり、ここでのポイントは、『ば』の条件文のように、「どうすれば間に合うか」という命題の答えになるような文脈を排して、「〜と、どうなるか?」という命題の答えになるように文を作ることである。
つまり、「急ぐ」+「◯◯に間に合う」だけでは、どうしても『ば』を使うべきだという意識が強く働くが、それを文脈から『と』の思考の流れに変えるわけである。
しかし、このように<必然結果>らしくする操作をしても不自然だと判断する人もいると思われる。
また、「急げば、◯◯に間に合う」と同じ事態(=始めに予定していた事態に間に合う)を「急ぐと、〜」で表現できないのかという問題が残る。
できないのなら、それはなぜか。もし、できるとしたらどのような文脈が必要なのだろうか。
「急がないと(=ぐずぐずしていると)、◯◯に間に合わない」のように後件が否定形になると自然に成立するのに、肯定形「急ぐと、◯◯に間に合う」が不自然になるのはなぜか?という疑問がある。
「間に合う」、「間に合わない」という述部が影響しているのではないかと推測できる。
そこで述部の意味内容が『と』の仮定条件の成立にどのような制限を与えているか、次のような仮説を立ててみる。
※ここでは広く述部について考察することは無理なので、とりあえず「間に合う」に絞って考えてみる。
「間に合う」という表現は意味的に可能になっている。つまり「その時間の前に着くことができる」という意味である。それが、不自然さの原因になっているのではないかと考えてみた。
前件と後件が因果関係になっていて、後件が可能表現の場合は肯定文と否定文で『と』によってまとめられる事態に違いがあるのではないだろうか。
後件が否定文の場合は、事態の結果のみを述べた後件でも無理なく文が成り立つ。これは否定の判断文は、前件から自動的に成立する、つまり<一つにまとまる>という意識が生じやすいからだと思われる。
しかし、後件が肯定文の場合は、結果のみを述べただけでは<一つにまとまる>意識が生じにくいために不自然になると思われる。
成立させるためには前件から自動的に結び付く内容を後件で補ってあげないといけない。
☆検証2
「来週だと、会えない」
「今週だと?/今週なら(ば)、会える」
「固いと食べられない」
「柔らかいと?/柔らかければ、食べられる」
「彼が来ないと、始められない」
「彼が来ると?/来れば、始められる」
このように、後件が否定文になっている場合は自然だが、肯定文の場合は非文とまでは言えないが不自然である。これは、可能文の肯定表現は述部だけでは前件と一つにまとまらないという意識が生まれるようである。
そのために次のように言葉を補えば自然になる。
「今週だと、『時間があるから』会える」
「柔らかいと、『簡単に噛み切れるから』食べられる」
「彼が来ると、『全員そろうことになるから』始められる」
これを「急ぐと・・・」に当てはめると、
「急ぐと、『普通に行くより10分ほど早く行けるから』◯◯に間に合う」となり、最初の文よりは自然な文となる。
しかし、これでもまだ不自然だと判断する人がいると思われる。
その原因は今度は前件の「急ぐと」にあると思われる。
つまり、「急ぐ」という事態が一体どのような種類ものものなのか判別できない。走るのか、車で行くのかわからない。だから、「間に合う」との一体感はもちろん、「普通に行くより10分ほど早く行ける」という命題とも一体感が生じにくい。「急ぐ」という動詞だけから自動的に成立する事態はやはり「転ぶ」や「間違う」や「危険だ」のようなものになるのである。
☆検証3
これが、「タクシーで行く」であれば、
「タクシーで行くと、『普通に行くより10分ほど早く行けるから』◯◯に間に合う」となり、「急ぐと」よりは自然な文となるのではないだろうか。
そもそも、後件が成立する前提条件を述べるのは『ば』の領域である。『ば』は私たちが経験によって裏付けられた知識をベースに理論的な関係を作り出す。だから、言葉が十分でなくてもその因果関係がたちどころに理解される。したがって、「急げば、◯◯に間に合う」と言える。
しかし、『と』はそのようなベースから生まれたのではなく、あくまでも現実的であり、「〜スルとどうなる」という現象面を捉えただけである。だから、認知的に一体感が生じるものでなければなかなか「〜と〜」で結びつけられないのだろう。
そのような一体感を生じるには、前件、後件ともにその内容が現実的に認知できる程度に具体的かつ直接的でなければならないと言える。これは『と』の基本的な意味特徴である<同時性><継起性><一つのまとまり>と深く繋がっているものと思われる。
どのような内容が「と」にふさわしく、<一つにまとまる>意識が生まれるかは一概には決められない。
それは人間が出来事をどのように認知するかという問題である。
結局は、前件も後件も『と』の基本的な特徴であった<同時性><継起性><一つのまとまり>というものが意識される内容になっていなければ不自然になるということだろう。
そのように意識されるためには、前件と後件が
1)『ば』とは反対に『と』の思考の流れになっている必要がある。
2)『ば』とは違って、より具体的で直接的なつながりが意識される内容でなければならない。
「一生懸命勉強する」ことと「いい大学に入れる」ことを結びつけようとすると、それは経験上『ば』では問題なく結び付けられるが、『と』は非常に難しい。
上の検証のように後件に前件から自動的に成立する内容を補おうとしても、「一生懸命勉強すると、『成績が上がるから』いい大学に入れる」となって、まだ不自然さが残る。つまり、「一生懸命勉強する」ことと「成績が上がる」ことに対して<一つにまとまる>意識が生まれないのである。
『ば』のように理論的には理解できても、『と』のように現実的にはイメージできないのだろう。先のイメージで表現したように、ひもの一方を引っ張ったら、もう一方がクッと反応するような現実味がないのである。通常私たちが認知している現象は「一生懸命勉強する」ことと「疲れる/頭がいたくなる」、人によっては「気持ちがいい」ことなのである。
つまり、『と』による結び付きは非常に現実的で、『ば』のそれは非常に理論的であると言える。
「急ぐと、◯◯に間に合う」がどうして不自然で、「急げば、◯◯に間に合う」が自然なのか、また「急がないと、◯◯に間に合わない」となると自然になるのかを考察してみた。
結局は二つの出来事をどのように言語表現に取り入れるかという問題に行き着くことになる。
『と』と『ば』ではその結び付けかたが異なることがまず根本的な原因であることを指摘した。そして具体的には「間に合う」という述部の可能表現、「急ぐ」という動詞そのものの情報性に着目して、<同時性><継起性><一つのまとまり>を特徴とする『と』では結び付けられないということを検証した。
それにもかかわらず「急ぐ」ことと「◯◯に間に合う」ことを『と』によって結び付けようとしたら、それなりの文脈と言葉が必要であるが、不自然さが完全になくなるとは言えないことを示した。
今回の考察を終えてみて、実は何一つ解明されていないのではないかという不安がある。
「急ぐ」ことと「◯◯に間に合う」ことは『と』の思考によって<自動的>に結び付くものではないのかと言われれば、そうかもしれないと言うしかないのが実情である。
それを私たちの物事の認知の仕方だと言って済ませるのはある意味で問題をあやふやにしているとも言えるからだ。
仮説の1〜3にしても十分に検証されているとは言えないのは確かである。
しかし、「と」と「ば」の意味概念の違いがこの不自然さを生み出していることは確かである。
要するに「と」の使用制限は形に現れたものを観察すれば複数あり、それらが複合的に組みあわさって不自然な文が生まれるのだろう。その制限は外にもあるだろう。それでも、その現象の根底には人間の認知の仕方が関わっているというのが現段階の考察である。
ちなみに「と」の意味概念が<同時的><継起的><一つのまとまり>と言っても、それは客観的、物理的な世界をそのまま反映しているわけではない。
「牛乳を飲むと、骨が丈夫になるよ」と言っても、飲んですぐ骨が丈夫になるわけはない。しかし、人はそのような結び付きを<自動的>な結び付きとして<一つのまとまり>を感じるわけである。
それでは翻って、「急ぐと、◯◯に間に合う」はなぜそう感じないのか?ということになるわけである。
まだまだ検証するべきことがたくさんありそうである。
1)『教師用日本語教育ハンドブック3 文法1助詞の諸問題1』(国際交流基金)
この本の条件に関する一連の記述は今回の考察で最も参考にしました。
条件文における「個別的」「一般的」という区別にはじまり、「と」「ば」の意味概念など
非常に勉強になりました。
※考察部分はこの参考書の内容を私なりに解釈してまとめたものです。
仮説とその検証は私の個人的な見解によるものです。
2)『日本語教育辞典』日本語教育学会編(大修館書店)
この本のp211〜の説明は今回の条件文の整理に役立ちました。
基本的に1)と同じですが、「個別的」という表現ではなく、「特定的」となっています。
3)『基礎日本語辞典』森田良行(角川書店)
この本からは「と」「ば」の思考の方向性について参考にしました。
4)『日本語類義表現の文法(下)」宮島達夫 仁田義雄編(くろしお出版)
この本のp483〜「ト・バ・タラ・ナラ」についての小論がありますが、この小論に限らず
この本に収められたものは考察の最初にこれまでの研究のまとめとその問題点が簡潔に
まとめられているので便利です。