#26「越える」と「越す」は自他動詞の対立と言えるか?


訂正・修正履歴
12/22/2000→「課長とポストを飛び越して〜」について修正→<こちら

問題点

「越える」と「越す」は国語辞書によって自他の判断が分かれていたり、明示されていなかったりである。
形態上は「〜す」が他動詞、「〜える」が自動詞と判断されやすいということ。古語辞典で「越す」が他動詞とされる場合があるということなどから、この二つの動詞は自他の対立があるのかないのかが問題になった。
注)この辺の事情はshujiさんの掲示板に詳しい(→)



考察

この考察では2つのアプローチから自他の対立の有無について判断してみたい。

☆自他の対立の判断(1)

「越える」「越す」は<移動>の意味を持つ動詞で、
る場所Xの上を移動して向こう側へ行くことを表わす。
その点では「渡る」「渡す」という自他動詞のペアと共通した意味概念を持つ。

しかし、「渡る」「渡す」は
1)Bさんが(橋を)渡る
2)AさんがBさんを渡す

のように表現できるが、「越す」「越える」は
3)Bさんが(山を)越える
4)AさんがBさんを越す

のように4)は不可である。
「越す」も3と同じように
5)Bさんが(山を)越す
のように使われる。

つまり、「越える」「越す」は人の移動の意味では自他の対立はないと言える

人の移動についての自他の対立は「(人が)乗る」「「(人を)乗せる」の対立にもみてとれる。

注)ここでいわゆる移動の通過点を示す格助詞「を」の扱いについてだが、
  もしこのような「を」格をとるものも他動詞と認めるなら
 「越える」も「越す」も他動詞ということになり、結局自他の対立はないことになる。



☆自他の対立の判断(2)

それでは「越える」と「越す」は全く同じ意味かというとそうではない。
用例をみると使い分けがあるように思われる。

6)車は多摩川/山を越えた
          越した
7)飛行機は砂漠を越えた
         越した
6)や7)は辞書ではどちらも用例として載っている場合が多いが、実際の使用を考えると「越す」は使われずに「越える」が使われていると思われる。

注)『ことばの意味3』(平凡社)でもそのような指摘がある。
  古語では使われていた通過の意味は現代語(東京方言)では「越える」が担っている
  通過の意味で使う場合には「通り越す」「飛び越す」「追い越す」などの複合語として使うか、
  慣用句として残っている(:「箱根八里は馬でもコスがコスにコサレヌ大井川」)程度である
  としている。

それでは、なぜ通過の意味が「越える」に収斂されていたのだろうか?
ここで<通過>という意味をもう少し厳密に見てみることにする。
   A  B C
|========|===→
 *****

ある場所(***)を通過するということはA、B、Cの局面が考えられる。
「越える」とはBの瞬間に成り立つ事態である。
そして、「越える」はA〜Cの局面を含んだ概念として使われる

しかし、その焦点となるなるものはB〜Cであると思われる。
つまり、「渡る」がAの局面に焦点をあてながらも始点と終点(B)を表現できるのとは異なる。
8)こちら側から向こう側へ渡る。

ただし、「渡る」はCの局面は表現できない。
9)横断歩道を渡る。cf.横断歩道を越える

一方「越す」という動詞はA〜Bの局面に焦点をあたた動詞であったと考える。
その根拠としては
(1)Aの移動の局面を表わす動詞とともに複合動詞が生成された
   「通り越す」「飛び越す」「追い越す」
   注)×「通り越える」「追い越える」
     「飛び越える」は可能だが、B〜Cに焦点があるため「飛び越す」とは使われ方が異なる
     ◯「課長のポストを飛び越して、部長に昇進した」
     ×「       飛びこえて、       」
      課長のポストはAの局面に存在するものなので「越す」が自然になると思われる。
 

訂正・修正
「飛び越える」と「飛び越す」の使われ方について
毎日新聞12月20日朝刊(1面NEWSLINE)に次のような記事が載りました。
『琴光喜が小結を飛び越えて新関脇に昇進した
そこで気になって、ネットで文字列検索をしたところ
”を飛び越えて/昇進”→91件
”を飛び越して/昇進”→36件
という結果を得ました。(Google使用)
実際はこのような文では「飛び越える」がより多く使われているようです。
このような事実を踏まえて、上の記述を次のように改めたいと思います。
課長のポストを<点>のようにとらえるならば、Aに位置するというよりBに位置するとするのが正しいだろう。そうすれば「越える」も「越す」も使われるが、その意識するところが異なるかもしれない。「越す」はよりA〜Bの局面を意識し、「越える」はよりB〜Cの局面を意識している。
ポストというものは確かに<点>と捉えるのが普通だが、意識としてそのポストに至るまでの<過程>も含めて考えれば、それがA〜Bの局面となり、『越す』の対象の焦点になるように思える。
このことは以下にある「越す」がより<動き>を意識し、「越える」がより<結果>を意識することにもつながると考えられる。
但し、「越える」が「越す」の領域にも進出しているという考え方をとれば、このような意識の差もほとんどなく、「飛び越える」が多く使われていると見ることができる。

(2)「越える」が使えず、「越す」が使える場合
  次の例を見ると、「越す」がA〜Bの局面に焦点を当てることの一つの現れと考えられる。
10)冬を越す
    越える。×

  ちょうど、先の例ではAに焦点をあてた動詞が「渡る」だったように、
  この場合はAに焦点をあてた動詞は「過ごす」だと思われる。

(3)心的な走査の場合に<着点>を意識した文脈では「越す」は使いにくい
11)◯あの塀を越えたところに◯◯がある。
  ?    越したところに

補足:「越える」がCも焦点にしている事実は『超える』と『超す』の違いにも現れる。
12)?応募者が百人を大幅に超した。
  ◯          超えた 
13)?講演は予定の時間を一時間も超した。
  ◯             超えた。

  ※以上の例文は上記の『ことばの意味3』より

このように<通過>という事態のどの局面に焦点が当てられているかを考慮すると、次のようにまとめることができる。

  A 〜 B 〜 C
 <過ごす>
 <渡る >
 < 越す >
(<  )越える  >
       
このように図式してみると、「越える」はB〜Cを焦点にしながらもAも含む概念をもつためにA〜Bのみに焦点をあてる「越す」の存在意義が薄れて行ったのではないかと推測される。

このような見方が正しいとすれば、「越える」は結果指向の動詞であり、「越す」は(相対的には)動作指向の動詞であるという見方も可能である
もちろん、「走る」のように「走りつづけた」のような継続のアスペクトは不可能ではある。しかし、この相対的に動作指向であることが、「焼く」「焼ける」のような自他動詞のペアの対立概念とある程度だぶることも確かである。

14)「魚を焼く」→「魚が焼ける」
15)「人が(山を)越す」→「人が(山を)越える」

のような類推が働くこともありえる。もちろん、「焼く」「焼ける」のように対格と主格の交代のような統語上のルールは「越す」と「越える」には当てはまらないが、イメージされる対立概念には共通するものを感じるのかもしれない。
その意味では「越える」と「越す」を自他の対立があると判断することも可能であると思う。



まとめ

以上、2つのアプローチで「越える」と「越す」の自他の対立の有無を考察してみた。
はじめのアプローチでは統語的には自他の対立は認められないという判断となり、
2つめのアプローチでは意味上(概念上)は自他の対立のようなものが認められるという判断となった。



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