#24「〜てもらって、ありがとう」はなぜ不自然に感じるか?(2)

前回の分析(#22)のおさらい

前回の分析では「くれる」と「もらう」の<主観性>の違い「ありがとう」と「うれしい/助かる」の表現類型の違いを観察することによって、「くれる」は「ありがとう」にマッチするが「もらう」はマッチしないと結論を出した。
そして、「もらう」が「いただく」と敬語表現になったときに、それまで不明瞭になっていた「受け手」がだれかということが文脈から察することができるので、「いただく」と「ありがとう(ございます)」はマッチすると考えた。
さらに、「〜てもらって、ありがとう」という本来は不自然であった表現が広く使われるようになった原因として、日本語に特有である、giveという行為に対して「くれる」と「もらう」の二つが存在することの意義が薄れてきているのではないかと推測した。



前回の分析(#22)の問題点

前回の分析ではかなりイメージ的な考察になったところがあった。
<主観性>の強さとマッチする表現類型とは一体何かという具体的な論証はされなかった。
そこで、今回はそれを反省して「マッチする/しない」という意識がどのようにして生じるのかをもう少し分かりやすく解説を試みると同時に少し別な視点からアプローチしてみることにした。



分析(1)前回の分析の重要点の再解説

前回の分析は次の前提のもとでなされた。

1)◯「教えてくれて、ありがとう」
2)?「教えてもらって、ありがとう」
3)◯「教えてもらって、うれしかった/助かった」
4)◯「教えていただいて、ありがとうございます」
5)×「教えてくれて、私はありがとう」
6)×「教えてもらって、私はありがとう」

この6つの文の適否であるが、
1)は自然である。
2)は不自然であるが、3)のような述部では自然になる。
2)は不自然であるが、敬語表現にした4)は自然に感じる。
5)と6)はどちらも不可である。

☆1)が自然で2)が不自然に感じる理由

上の判断を前提に今回は<マッチする>ということを少し別な言い方で説明したいと思う。
<マッチする>という感覚は、文章の始めを聞き(読み)、そしてその文章の最後まで聞いた(読んだ)ときに感じるものである。つまり、単純に文を2分すれば、前半部分の流れがうまく後半部分につながって完結したときに<マッチした>という感覚をもつというわけである。

そこで、1)と2)の前半部分を取り出して考えると次のようなことが言える。
「くれる」は「もらう」と違って、常に<自分に対して>を指定するので、ほぼ自動的に「あなたが→私に」という構図が想定できる
しかし、「もらう」については「誰が→だれに」なのか、構図が一義的には決められない
つまり、談話文法において主語、対象の省略は会話の当事者のどちらかであるが、それが決められない。
2)の解釈は二つ有り得る。
(ア)(あなたが←第3者に)教えてもらって
(イ)(私が←あなたに)教えてもらって

このように前半部を聞いた(読んだ)段階では、
1)は「あなたが→私に」という構図が決まっているが、
2)は構図が定まっていないということになる。

そこで、後半部で「ありがとう」という表現が来る。
「ありがとう」自体は「私が→あなたに」の構図を指定する
1)はその前半部の構図から自動的に「私が→あなたに」感謝するという意味で完全に<マッチする>が、
2)は構図が定まっていなかったために次の二つの構図をイメージする。
  (ア)「あなたが→第3者に」感謝する
  (イ)「私が→あなたに」感謝する
つまり、(ア)の場合には「教えてもらって、ありがとう」の後にさらに「〜くらい言えよ」などが続くようなことも可能である。そのへんの意識が2)の文の前半部と後半部が完全には<マッチしない>という意識へつながると考える。
このような事情から、「ありがとう」が「私が→あなたに」を示すにもかかわらず、(ア)の解釈の影響を無意識のうちにも受け、そのために<ミスマッチ>を感じると考えられる。
 

☆2)が不自然で3)が自然に感じる理由

前半部分についての構図は上の考察の通りであるが、後半部に「うれしかった」という述部が来ることによって何が変わるのか。
「うれしい」はいわゆる<主観形容詞>で自分のことについて述べるものである。そして、「ありがとう」と大きく異なるのは5)と6)が不可であることで、つまり、「うれしい」という述部によって文全体が「私は〜」という主題に支配されるということである
そこで、「うれしい」という述部の力によって、前半部がもっていた構図の二義性が「ありがとう」とは違って完全に解消されると考えられる。結局、次のような構図が出来上がって<マッチした>という意識が生まれると思われる。
「(私は)教えてもらって、うれしかった」
 

☆2)が不自然で4)が自然に感じる理由

簡単に言えば、2)を不自然にした要因が敬語表現を使うことによって取り除かれるからである。
前半部分の二義性は「いただく」を使うことによって、構図がほぼ一義的に決まると考えられる。つまり、(ア)の解釈は避けられ(イ)の解釈を受ける。
厳密に考えれば、(ア)の解釈も可能であるが、無視できるほど弱いものだと思われる。



分析(2)違ったアプローチ

分析(1)では<マッチする/しない>ということの具他的な説明を、「もらう」「くれる」の<構図>に視点を置いて試みたが、別な視点でそれを論証する現象がないかと考えた。
(2)では(1)と<マッチする/しない>という感覚が生まれることは同じだが、その原因を違うものに求めてみた。
この分析(2)では(1)では具体的に論じられなかった「ありがとう」の<構図>に視点を置いて具体的に考えてみたい。

☆1)が自然で2)が不自然に感じる理由

そこで、始めに次のような連体修飾節を考えてみたい。
7)教えてもらった
8)教えてくれた

被修飾名詞(=人)をもとに戻すとどうなるか。
7)の場合
A:<その人が>(だれかに)教えてもらった →「教えてもらった人」:<人=受け手
B:(だれかが)<その人に>教えてもらった →「教えてもらった人」:<人=仕手
8)の場合
C:<その人が><私に>教えてくれた →「教えてくれた人」

さて、8)の場合は一義的にCに決まる。
7)の場合は理論上はAとBの二つが考えられるが、実際はBよりもAの解釈が圧倒的に多いと思われる。それは9)の文の解釈にも現れる。

9)「教えてもらった人はだれですか?」
この文の「人」の解釈は文脈なしでは圧倒的に<受け手>を差すと思われる。

次に、「ありがとう」という表現がもつ構図をもう一度別な視点で考えてみたい。

感謝というのは
(ア)そのコトに対して
(イ)そのコトをした人に対して
という二つの面に対して向けられる気持ちであると考える。
つまり、「ありがとう」という表現が指定する構図は
(ア)『〜したコトに対して、ありがとう』
(イ)『〜したに対して、ありがとう』
という二つの面を持つと考える。

そこで、つぎの文を考えてみたい。
1)教えてくれて、ありがとう
2)教えてもらって、ありがとう
10)教えてくれたコトに対して、ありがとう
11)教えてくれたに対して、ありがとう
12)教えてもらったコトに対して、ありがとう
13)教えてもらったに対して、ありがとう

1)は10)と11)の構図を指定する。2)は12)と13)である。
前者の「くれる」では『コト』も『人』も問題なく処理されるが、
後者の「もらう」では『コト』の指定は問題ない(「私が→あなたに」)が、
『人』の指定で<ミスマッチ>が生じる
「教えてもらった」は通常、<受け手>を差すので、自分で自分にお礼を言うような感覚が生じてしまうのである。(「人=自分」に対して、ありがとうと言う)
 

☆2)が不自然で3)が自然に感じる理由

「うれしい」という述部が指定する構図は「ありがとう」とは異なる。
つまり、『〜したコトに対して、うれしいと感じる』だけである
『〜したに対して、うれしいと感じる』という構図はありえない。
したがって、「〜てもらって、うれしい」は矛盾することなく処理される。
 

☆2)が不自然で4)が自然に感じる理由

「教えていただいた」の解釈の問題である。
「もらう」と比べて、「いただく」の方が「私が教えていただいた人」という解釈ができる分、
<人=仕手>の解釈がされやすい(注:優位に立つとは言えないが)と思われる。
そこで、『こと』だけでなく『人』の指定も問題なく処理されるのではないだろうか。



まとめ

分析(1)は前回の#22と少し姿勢が異なる。それは前回は<主観性>というイメージで解決を試みたが、今回は<構図>という枠組みを考えることで解決を試みた。
その<構図>という枠組みに別な視点からアプローチしたものが分析(2)である。
どちらの分析もその単語が指定する<構図>という枠組みにマッチしないということが不自然さの原因であると結論づけた。
どちらの分析も全く異なるものではなく、むしろ2つの要因がからみあって<ミスマッチ>を意識するのではないかというのが現時点での感想である。



エピソード
&お願い

この分析(2)をするきっかけになったのは、ラジオ放送で司会者が投稿ハガキについて話しているときに、「こちらのコーナーにご応募くださった方にはもれなく◯◯を差し上げております」と言うのを聞いたことです。もしこの「くださった」の代わりに「いただいた」を使ったらどうなるだろうとふと考えてみて、なんか変だぞと思い、連体修飾の構文と「ありがとう」が結び付けられないかと考えたわけです。

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仮説は反証されるために存在するという考えをもちながら勉強しているので、論証ならぬ<こじつけ>のようなものになっているのは否めないと思います。これをお読みになった方からのご意見があれば、それをまた考察するのがこの<勉強部屋>の目的であります。
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