受益表現と感謝の表現を組み合わせる場合に次のような表現が考えられる。
ア)〜てくれて、ありがとう
イ)〜てもらって、ありがとう
ウ)〜てくださって、ありがとうございます
エ)〜ていただいて、ありがとうございます
これらの表現の中で、イ)の表現が不自然であると感じる人がいる。その一方でイ)の表現に違和感を感じない人もいる。不自然に感じる人はア)の表現が正しい表現であると考えるが、敬語表現になったエ)がそう違和感なく使えることに疑問を感じる。
そこで、今回の考察では、なぜア)が正しい使い方なのかということと、なぜエ)の表現が不自然にはならないのかを分析してみた。
さらに、なぜイ)の表現がこれほど広まったのかについて仮説を述べて、まとめにおいてこの表現の<合理性>を考えてみた。
「〜てもらって、ありがとう」が不自然に聞こえる理由
「〜くれる」は「〜もらう」と比べて非常に主観性が強い(自分自身に視点がある)
それは「くれる」は<私に>を常に指定する表現だからである。
したがって、相手の行為を要求する命令文を考えると、
「助けてくれよ」は自分への行為を要求する文として成立するが、
「助けてもらえよ」はその意味では成立しない。
相手がだれかに助けてもらうことを命令しているという意味になる。
このような事実を踏まえて、感謝の表現とマッチするかどうかを考えてみると、
『ありがとう』や『ありがとうございます』は自身の感謝の気持ちを直接相手に表明する形式である。
つまり、主観性が非常に強い表現である。
これは次のような表現と階層をなすと考えられる
1)〜て、ありがとう
2)〜て、ありがとうございます
3)〜て、うれしかった/助かった
3)は<主観形容詞>や主観を表わす動詞を使った場合だが、『私は〜た』という文が言えることを考えれば、正確には主観性を<叙述>した文である。
×「私は 〜て、ありがとう/ありがとうございます」
◯「私は 〜て、うれしかった/助かった」
ところが、1)や2)は『私は〜』という文では成立しない。つまり、自分の感情を直接に吐露した表現であると言える。すなわち、主観性が一番強いと言える。(1)のほうが2)よりも強い)
このように<主観性>の強さを考えると、1)はその強さのために、「〜てもらって」とはマッチしないことになる。したがって、「〜てくれて、ありがとう」という言い方が適切になると考えられる。
「〜てもらって」は主体が明示されなければ、それがいったい誰が恩恵を受けることなのかは不明である。
それが、強い主観性の表現をもとめる「ありがとう」とマッチしない原因であるが、
もし、敬語表現を使うことによって、それが誰についてなのか明示されれば、主観性がはっきりするわけである。「〜ていただく」と表現すれば、それは「私があなたに〜てもらう」ことであることが判明する。
それで、「〜ていただいて」という表現の場合に「ありがとう」が許容されるという判断が働くと思われる。
通常は表現の丁寧さのレベルをあわせて「〜ていただいて、ありがとうごあいます」という表現がここに成立するわけである。
しかし、これとは逆のことが成立する。
3)の場合には<主観性>のある形容詞や動詞を使っているが、それは<叙述>する文型である。
つまり、『私は〜』という文である。したがって、「私はあなたに〜てもらう」という文型を要求する「もらう」のほうが「くれる」と比べたときに自然になるはずである。
事実、次のような文の自然さを考えたときに「くれる」の容認度には?を付ける人もあると思われる。
「(わたしは)(あなたに)手伝ってもらって、うれしかった」
?「(わたしは)(あなたが)手伝ってくれて、うれしかった」
(ただし、「あなた」が手伝うことに感謝する場合には「くれる」の容認度は問題ないと思われる。)
以上、<主観性>の強さという視点と表現類型という視点で「〜てもらって、ありがとう」がなぜ不自然なのかを考察してみた。
「〜してもらって、ありがとう」という表現が実際に広く使われ、違和感を感じない人も増えてきているようだが、なぜだろうか。
仮説1
「私は〜てもらった」。だから「私は感謝する」という主体の一致を求めた。
つまり、本来は「うれしかった」などような叙述文で成立していた表現が「ありがとう」のような表現にも拡張していったのであろうか。
仮説2
これは以前の考察#16「〜ていただきますよう、お願いいたします」でも触れたことだが、「〜てくれる」に対して「〜てもらう」のほうが自分への行為に恩恵を感じるという指摘がある。
そのような心理が働くことによって、「ありがとう」という感謝の表現と結びついたとも考えられる。
表現の<ゆれ>というものは、必ずなんらかの合理性のある理由が存在するはずである。
それはいわゆる「ら抜き言葉」と言われるものにもあてはまることである。
それでは今回の「〜てもらって、ありがとう」はどんな合理性があるのだろうか?
受益表現において「もらう系」と「くれる系」のふたつが存在することの意義が薄れているのかもしれない。
授受表現も含めて、日本語は英語と違ってgiveを「あげる」「くれる」の二つで使いわけているが、このような使い分けの意義が薄れているのではないか。「あげる」と「もらう」の二つがあれば、なにも「くれる」を使わなくても全てが表現できるという合理性を求めた結果とみることができるかもしれないが、これは推測の域を出ない。