#21「神隠し」のような<対象無視熟語>はどうして生まれたか?

問題の出発点

神隠し」という熟語が特異な存在であることは日本語の文法書の複合名詞の説明にはよく紹介されていることである。
つまり、名詞+動詞→複合名詞という語構成の場合には大きく二つの種類があって

(1)名詞(目的語)+動詞(他動詞):稲刈り、自己紹介、ごみ拾い、など
(2)名詞(主語)+動詞(自動詞):雨降り、崖くずれ、日照り、など

「隠す」は他動詞だから「照れ隠し」のように目的語とともに複合名詞をつくるはずであるが、「神隠し」は「(何かを)隠すコト」を意味している。それで、特異な存在というわけである。

初めてこのことを知ったとき、面白い例外があるものだぐらいにしか考えていなかったが、最近このような熟語のことが気になって、他にもこのような他動詞でありながら対象を無視して複合名詞になったもの(とりあえずこれを<対象無視熟語>と呼ぶ)がないかと思い、日本語オンラインの掲示板に投稿したところ、意外にも複数見つかったので驚いた。
以下にその投稿で寄せられた例を抜粋する。括弧内は投稿者のウェブネームである(敬称略)。
 
鷲づかみ」(通りすがり 改め由上)
虫食い」(kyonta)
親ゆずり」(kyonta)
おうむ返し」(kyonta)
一人占め」(点)

それと同時に非常に気になる投稿があった。
 
テレビゲームの画面に2つもでていました。
魔人切り
盗っ人切り
神とか魔人とか何か特別な能力をもった主体の時に可能なのかもしれません。
(Ukiyoe)

これがなぜ気になったかと言うと、上の例は辞書の見出し(小見出し)にも登録されるような定着した熟語であるが、下のものは造語だからである。
一方で対象無視熟語は非常に限られた例しかない、つまり複合名詞としては語構成として普通ではないという特徴がありながら、もう一方では造語性もあるということである。この一見矛盾するような現象をどのように説明すればいいのか。



解決のいとぐち

最近購入した本(『日英対照研究シリーズ5 動詞意味論』影山太郎 くろしお出版)にそれと関連することが書かれていた。関連する箇所はもともと自動詞には2つのタイプがあり、それが他動詞とどのようにつながっているかということを複合名詞を例にとって解説しているところである。(p.24-26)

自動詞の2つのタイプはそれぞれ<非能格動詞><非対格動詞>と命名されているが、ここでは名称自体は問題ではないので、簡単にAタイプ、Bタイプとして扱う。
それぞれのタイプは(実際はもっと複雑だが)馴染みのある用語で言えば<意志動詞>か否かである。
Aタイプの自動詞
 <意志動詞
  働く、遊ぶ、話す、笑う、泳ぐ、飛ぶ、跳ねる、走る、歩く、など
Bタイプの自動詞
 <非意志動詞
  落ちる、流れる、ずれる、溶ける、凍る、開く、壊れる、など

この二つのタイプに分けることの意義は<意志的>かどうかということだけなく、統語的に重要な意味があるというのである。
つまり、他動詞は主語と目的語をとり自動詞は主語だけであるとしたときには見えてこなかったことで、Bタイプの動詞は対象物を主語にとるということで、これを<目的語相当の語>であると考えることが重要らしい。図式で示すと下のようになる。

1)他動詞    :主語-<動詞>-目的語
2)Aタイプ自動詞:主語-<動詞>
3)Bタイプ自動詞:  -<動詞>-目的語相当の語

ここに他動詞とBタイプの自動詞のつながりが見えてくる。
そして<主語>は『外項』、<目的語(相当の語)>は『内項』と呼ばれ、動詞は『内項』との結ぶ付きが強いために、複合名詞が生成される場合にはこの『内項』と結び付くという力が強く働くのである。

このことが、「神隠し」のような『外項』と結び付いた例がまれであることの理由である。
さらに、Bタイプの自動詞から複合名詞が多量に生産されることの理由でもある。

それではAタイプの自動は複合名詞を生成できないのかというと、できないわけではないが、(実際はそう多くなく、あっても)その意味関係がBタイプと全く異なるという。
そこで、AタイプとBタイプの熟語例を比べてみると、
(以下は参考書からの引用である。p.25)
 
Aタイプ
 カエル泳ぎ、イヌかき、ウサギ跳び、塚原跳び、韋駄天走り、イヌ食い、タヌキ寝入り、男泣き

Bタイプ
 心がわり、胸やけ、地滑り、崖くずれ、雨漏り、気乗り、雨降り、夜明け、日暮れ

このAタイプの例を見て、始めに書いた私が気になった例(「魔人切り」「盗人切り」)をすぐに思い出したのである。

AタイプがBタイプと異なるのはBはもともとの動詞文がもっていた事象がそのまま名詞になっている(「心がかわる」コト→「心がわり」)が、Aはそうではないということである
「カエルが泳ぐ」コトを表現するために「カエル泳ぎ」という名詞があるわけではない。つまり、「きのう池でカエル泳ぎを見た」などという文は通常使われないということである。同書ではこれを<動物の名を借りた名付け表現>であるとしている。



考察

同書の以上の解説から私なりに「神隠し」を考えて見ると、他動詞による<対象無視熟語>もAタイプの複合名詞がもつ<名付け表現>であると言えるのではないかということである。

「神隠し」も実際に「神が何かを隠す」コト自体をとらえた表現ではなく、突然人がいなくなるという事象を説明するために「まるで神が隠すようにいなくなった」ことを伝えるために作られた<名付け表現>だということである。
「鷲づかみ」も「鷲が何かをつかむ」コトではなく、普通は人が「鷲のようなつかみ方をする」コトを形容するために生まれた熟語である。
「オウム返し」も「虫食い」も確かに実際にオウムがすること、虫がすることを指す場合もあることはあるが多くの場合は「そのようなコト」を指すために使われる熟語である。

これは視点を変えれば、<メタファー>のひとつである。つまり、ある物事を説明するにあたって、外界にそれを形容するにぴったりな事象があればそれを使うわけである。
その働きは典型的にはBタイプの自動詞で現れるが、他動詞であっても(内項との結び付きを切ってでも)現れると考えられる

新しいコトが生じた場合にそれにどんな名前を与えるか。全く新しい単語を考え出すよりも既存の単語を利用するほうが経済的であり理解もしやすい。そんな心理が働いているはずである。

話は横道にそれるが、今だに正式な決着がついていないアメリカの大統領選挙であるが(12月3日現在)、問題となったフロリダ集の投票用紙はパンチカード式である。そのパンチ穴が完全にあいていない状態をどう表現するか。1辺、2辺、3辺がそれぞれくっついたままになっている状態は動詞が使われているが、押した形跡が残っている状態を『えくぼ/妊娠』と呼ぶそうである。なかなか面白いメタファーである。

動的なコトはどうするか、例えばスポーツにおける『技』である。それはその技を最初に生み出した人の名前にちなんで付けるのがてっとり早いし礼儀にかなっている。そうやって「塚原跳び」が生まれたのだし、メタファーが働けば「月面跳び」などとなる。
メタファーという視点で見れば、「親ゆずり」という熟語も実際に「親が子供に(財産などを)譲る」という意味で使うこともあるかもしれないが、たいていは「親ゆずりの性格」などのように実際に目に見える『物』ではなく『特徴』を指す場合に使われることも説明がつく。

実際は、<◯◯がするから「◯◯〜」>と<××がするようにするから「××〜」>という命名の二つの方法はつながっているのだと思う。◯◯も××も『典型的』なものという点では一致しているからだ。
このように考えると、ゲームの世界で活躍するキャラクターからいろいろな『技』が命名され、新しい言葉が生まれるというのももっともなことである。



まとめ

なぜ「神隠し」のような複合名詞がまれなのかという疑問から出発したのだが、以前はただ「対象よりも主体のほうが重要な意味があるからだ」くらいにしか考えていなかったが、新しい物事の名付けという視点で見ると、自動詞の二つのタイプとの共通点などが見えてきてなかなか面白い構造が浮き彫りになったのではないかと思う。
もともと動詞に内在する力によって生まれる複合名詞として1)<目的語>+<他動詞>と2)<目的語相当の語=対象物>+<Bタイプ自動詞>があり、それは『内項』と動詞が結び付く力によるものである。そのような力を振り切って生まれる複合名詞(外項と結びつく場合)それを生み出す人間の認知の作用が関わると考える。それがメタファーであり、命名ということである



余談

男泣き」という言葉はあっても「女泣き」という言葉はあまり聞かれない。それは「男はどんなことがあっても涙をみせぬもの」という社会通念があるからだが、その社会通念も時代とともに変化することだろう。
男勝り」といえば女性のことを指すが、これは「女が男に勝る」という他動詞の力によってできた複合語である。もしかしたら、いずれ「男勝り」が「男が女に勝る」という意味で使われる時代が来るのかもしれない。女性がどんどん強くなっていって、ついには『はちょっと「男勝り」なところがあるから、なかなか出世しないんだ』なんて使い方がうまれたりして・・・・・(^_^;
男が強いことがめずらしくなった世の中ではそんな使い方(命名)が生まれないともかぎらない。



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