この考察はいつもお世話になっている「やっさん」の掲示板(日本語教師塾)でやりとりされたことを踏まえて書いたものもです。いつも貴重な意見をくださる「やっさん」、「きんちょさん」、そして今回モダリティについて指摘してくださった「ののこさん」に感謝いたします。
今回の考察はこの勉強部屋の以前の記事である#10「よろしかったでしょうか」を使いますか?という考察で「タ形」がもつモダリティを取り上げましたが、それについてさらに考えたものです。以前から気になっていた「タ形」がもつ<テンス><アスペクト><モダリティ>の3要素を考えてみました。
そして、若干ですが認知的なアプローチも取り入れました。
*疑問の出発点
日常使用している表現を反省してみると、なぜここに「タ形」が使われているのかと不思議に思うものがある。次のような場面で私たちは「タ形」を使うことが普通のようである。
場面:花子さんは友達どうしで友人の太郎君のことを話していた。そこへ太郎君が来た
会話:花子「あ、太郎君。今ね、太郎君の話をしていたところなの」(ア)
話していたことは<過去>のことであるから、何も問題はないではないかと考えるかもしれないが、次の文と何が違うかと問われたらどう答えるだろうか。
(イ)「あ、太郎君。今ね、太郎君の話をしているところなの」
(ウ)「あ、太郎君。今ね、太郎君の話をしているところだったの」
(ア)の文がなぜこの場合に自然に感じて、(イ)ヤ(ウ)のような言い方が(ア)ほど自然には感じないのだろうか?
「〜ているところだ」や「〜ているところだった」自体は文法的には正しいもので、それが適当な場面はいくらでもある。
*疑問の原点に戻って
「〜ている/いたところだ/だった」という表現が疑問の出発点だったが、その後次のような日本語が同じ場面でありながら使い分けられているということを踏まえて、原点に戻って「〜ている/〜ていた」の対立がどのようになっているのかを調べなければならないのではないかと思うようになった。
場面:友人が何かを読んでいるところに近づいて行って質問する
会話:(エ)「あれ、何の本を読んでいるの?」
(オ)「あれ、何の本を読んでいたの?」
(1)分析にあたってのアスペクトとテンスの基本的な概念の整理
★アスペクトの概念と「〜とろこだ」のつながり
私たちはある動作を<幅>があるものと捉え、ある時(通常は発話時)にそれがどの段階にあるかということ(アスペクト)を示すために3つの形式を使い分けている。
1)<未然:これから始まる段階>には「〜ル」を、
2)<既然:すでに終わった段階>には「〜タ」を、
3)<進行中:現在進行している段階>には「〜ていル」を使う。
例文:1)もうすぐ読む
2)もう読んだ
3)いま読んでいる
------------------------------→ (時間の流れ)
* ===*=== * (<読む>という動作の<幅>)
↑ ↑ ↑
1) 3) 2)(動作の段階)
そして、ある動作が(今現在)どの段階にあるかということを話者が特に取り立てて述べる場合にはこの基本的なアスペクト形式に「〜ところだ」をつけて表現する。
例文:4)いま読むところだ
5)いま読んだところだ
6)いま読んでいるところだ
★テンスの概念と「〜ところだった」のつながり
私たちはある動作が発話時からみて<以前/今/以後>なのかを表現するために2つの形式を使い分けている。
A)<非過去:現在または未来>には「〜ル」を、
B)<過去>には「〜タ」を使う。
例文:A1あした読む (アスペクト:未然/テンス:非過去=未来)
2あしたの今ごろは本を読んでいる(アスペクト:進行/テンス:非過去=未来)
3今本を読んでいる (アスペクト:進行/テンス:非過去=現在)
B1きのう読んだ (アスペクト:既然/テンス:過去)
2あの時は本を読んでいた (アスペクト:進行/テンス:過去)
ここで注意するべきことは日本語ではアスペクトを示す形式とテンスを示す形式に共通するものがあることである。<未然>の概念は当然<非過去>につながり、<既然>の概念は当然<過去>とつながる。また、<進行>は<非過去>にも<過去>にもつながり得る。
つまり「ル形」と「タ形」はテンスとアスペクトのどちらの概念も含んでいると言える。それが、文脈や語彙(あした、もうすぐ/きのう、もう)などによってどちらかが『顕在化』して、どちらかの解釈を(より強く)受けるわけである。
上のA1とB1は「タ」がテンスとして顕在化した例である。(ゴシック)
上のA2、3とB2はアスペクトとテンスがともに顕在化している例である。(ゴシック)
「〜ところだ」はアスペクトを取り立てる形式であるから、「〜」にはアスペクトの形式が来て、文末の「だ」によってテンスを示すことになる。
したがって、「〜とろこだった」は、発話時からみて、その時にはそのような段階にあったことを示す形式である。
例文:7)<その時>は本を読むところだった
8)<その時>は本を読んだところだった
9)<その時>は本を読んでいるところだった
上でも触れたことだが、日本語では「タ形」がテンスとアスペクトのどちらの機能も担っているが、それだけなくモダリティの機能も担っていることはよく指摘されるところである。しかし、これまでは「〜している」と「〜していた」についてモダリティを論じることはなかったと思われる。
そこで、この考察では「する/した/している」の3つについて、<テンス><アスペクト><モダリティ>が内在するという考え方に立ち、それがある場面、文脈(語彙的条件も含む)によってどれかが顕在化して文の意味が解釈されるとみる。
まず、この3つの要素の顕在化する要因を概観し、その後「〜ている/ていた」を取り上げて分析し、その結果を踏まえて、「〜ている/ていたところだ」の違いについて結論を出したいと思う。
最後にここで考えたモダリティがこれまで論じられたモダリティとどのようにつながっているかを見てみたい。
注:以下の考察では「〜ている/ていた」の形式を扱うにあたって、複雑さを回避するために動詞は動作(継続)動詞のみを対象とし状態をしめすことになる変化動詞は扱わない。
★<テンス><アスペクト><モダリティ>の顕在化の概略
注:◯は顕在化 /は潜在化 △はその中間を示す
[語彙的条件] [形式] [アスペクト] [テンス] [モダリティ]
↓ ↓ ↓ ↓ ↓
ル形 未然 非過去
あした〜 する / ◯=未来
もうすぐ〜 する ◯ /
タ形 既然 過去
きのう〜 した / ◯
もう〜 した ◯ /
※注1 した △ △ ◯
シテイ(る)形 進行中
ル形 非過去
今〜 している ◯ ◯=現在
明日の今ごろ〜 している ◯ ◯=未来
タ形 過去
きのう〜 していた ◯ ◯
※注2 していた ◯ △ ◯
※注1:従来「タ形」がモダリティを示すと言われていたもの
※注2:今回「タ形」がモダリティを示すと考察するもの
ここで注意することは、従来「ている」でまとめて<アスペクト>と言われていることを、これからの分析のために「てい(る)」として語尾のル形とタ形の対立を取り出した。つまり、「〜ている/ていた」が全体で一つのアスペクトを表わすという立場ではなく、アスペクトとテンスがあわさったものとみる。したがって、「〜ている/いた」の語尾のル形とタ形はアスペクトを表わすことはないという見方である。すでに<進行中>というアスペクトを表わす形式にさらにアスペクトが付くのは矛盾すると考えるからである。
しかし、そのようなアスペクトの連続した複合体を想定することは可能である。
例えば、「〜ている」は<進行中+未完了/未然>で、「〜ていた」は<進行中+完了/既然>という捉え方もできるかもしれない。
★「〜ている」の捉え方
アスペクトを表わす形式の一つで、
ある時点においてその事象が<幅>をもって展開している最中であることを表わす
イメージ (=====)[進行中](======)
★「〜ている」と「〜ていた」の関係
アスペクトの「ている」の「ル形」が「タ形」と交代したもの
「タ形」がもつ機能である<テンス>と<モダリティ>が文脈/場面によって顕在化する
(1)<過去>のテンスの顕在化
過去のある時点である事象が進行中だった
※その展開が発話時からみて<過去のこと>であると解釈する
[過去の時点] [発話時]
↓ ↓
(======)[進行中](=======) *
<過去>
『山田さんは<その時>何をしていたの?』
『山田さんは<その時>本を読んでいたよ』
(2)<非過去:現在>のテンスの顕在化
今の時点である事象が進行中である
※その展開が今現在展開中であると解釈する
[発話時]
↓
*
(======)[進行中](======)
<非過去:現在>
『山田さんは<今>何をしているの?』
『山田さんは<今>本を読んでいるよ』
(3)<非過去:未来>のテンスの顕在化
未来の時点である事象が進行中である
※その展開が発話時より後に展開すると解釈する
[発話時] [未来の時点]
↓ ↓
* (======)[進行中](=======)
<非過去:未来>
『山田さんは<明日の今頃>何をしているかな?』
『山田さんは<明日の今頃>本を読んでいるでしょう』
以上(1)〜(3)は「ル形」「タ形」が語彙的条件(文脈)によってテンスを顕在化させた例である。
ところが、場面(文脈)によってはテンスではなくモダリティを顕在化させる場合がある。
それは(2)の場合、または(1)で[過去の時点]と[発話時]が非常に接近している場合である。
このような場面ではアスペクトの概念で捉えられた<幅>が今現在にかかっていることが了解されるために「タ形」を使っても<過去>のテンスが十分に顕在化されないで、むしろモダリティの機能が顕在化することになる。
*モダリティの種類
今現在「〜ている」というアスペクトにあることを『確認する』という話者の心的態度を表わす。
つまり、「〜している」コトに対して話者が<発話時>または<発話時に非常に近い時点>において『確認する/した』という心的態度を示すものである。
(4)『確認』が<発話時>に先行する場合
※[過去の時点]と[発話時]が非常に接近している場合
[過去の時点] [発話時]
↓ ↓
(======)[進行中](=====*=====)
<確認>
『山田さんは何をしていたの?』
『山田さんは本を読んでいたよ』
(5)『確認』が<発話時>と同時の場合
[発話時]
↓
*
(======)[進行中](=======)
<確認>
『(あなたは)<今>何をしていたの?』
『(わたしは)<今>本を読んでいたの』
★(4)(5)は(1)(2)と何が違うのか
*客観的な叙述か主観的な要素が入るか
(1)(2)はモダリティが潜在化している状態であり、その意味ではある事象を<テンス>と<アスペクト>の形式によって客観的に叙述する形式である。
それに対して、モダリティが顕在化する(4)(5)はそのような客観的なコトに対して話者がどのように捉えたか、どのように相手に伝えるかを表わすものである。
つまり、(4)も(5)も「〜ている」ことを前提にそれに対して話者の心的態度を表明しているのである。
認知的には(1)と(2)は事象のアスペクトの<幅>の全体を視野に入れ、それに焦点を当てているのに対して、(4)と(5)はアスペクトの<幅>全体を視野に入れつつ、『確認』が行われた時点までの片側(:過去の部分)に焦点を当てていることになる。この点がまさに<過去>のテンスが十分に顕在化されずに、むしろモダリティのほうが顕在化することを意味する。
*具体例
(4)においては厳密な意味で<今現在>その事象が進行中であるかはわからないが、そうなっていることが暗黙のうちに了解されている。つまり、アスペクトの<幅>全体が視野に入っているわけである。
会話例:夫「太郎はちゃんと勉強しているかな。ちょっと見てきてくれないか」
妻「はい」
(見てきたあと)
妻「ちゃんと勉強していたわよ」
(5)においてはその事象が新たな参与者の介入によって中断されたかもしれないが、事象の「中断」は必ずしも必要なことではない。『確認』というモダリティがその事象の「中断」を生じやすいことは事実だが、それは『確認』がその時点以前(過去)を焦点に当てているからであって、つまり意識の上のことなので、意識上「中断」が起こるというのが正確であると考える。
次の会話例に見られるように、相手は必ずしも動作を中断するとは言えない。(もちろん中断することのほうが多いと思われるが)
会話例:(子供たちが工作をしている)
「あれ、ぼくは何を作っていたのかな。おじちゃんにも見せて」
会話例:(作文を書くように指示を出して教室を出る。ざわざわしてきたので教室に戻る)
教師「さあ、皆さん、ちゃんと書いていましたか」
*モダリティが顕在化することによる表現効果
上にあげた例文が示しているとおり、どの例文も「〜ていた」を「〜ている」に変えることが可能である。
つまり、「ていた」は「ている」に対して<過去>のテンスを全面的に示しているわけではないということである。
「している」というアスペクトで捉えられたコトに対して発話時まで展開していた部分を取り立ててそれを『確認』するというモダリティが働いているとみる。
それでは『確認』のモダリティによってどのような表現効果が生じるのだろうか。
まず、第一に『確認』という心的態度は会話の相手が存在する場合にはその相手との情報共有を指向する態度である。
「情報の共有を指向する」ことがどのような効果を生むかは語用論の問題であり、一概には決められない。しかし、無標である「〜ている」がモダリティを顕在化させない、より客観的な叙述であることを考えると、一般的な傾向としては<プラス指向>として解釈され、情報を共有したという気持ち、さらには自分側のテリトリーに相手を受け入れる(相手側のテリトリーに自分を受け入れてほしい)という態度が表われる場合が多いと思われる。
会話例:(電話で友人同士の会話)
「もしもし、今テレビ見てた?」
「見てた、見てた、すごいな松井がまたホームラン打ったぞ」
会話例:(友人同士の会話:花子さんが遊んでいるところへ道子さんが来た)
道子「道子ちゃん、何してたの? 楽しそうね」
花子「あや取りしてたの。いっしょにする?」
もちろん<情報共有指向>が<マイナス指向>として働くこともある。この場合は通常相手を排斥するための語彙が共起する。
会話例:友人同士の会話:花子さんが遊んでいるところへ道子さんが来た)
道子「道子ちゃん、何してたの? 楽しそうね」
花子「見てわかんないの。あや取りしてたんだよ。じゃましないでよ」
★「〜ている/ていたトコロだ」の捉え方
*基本的用法
「〜ところだ」はその事象がどのようなアスペクトの段階にあるかを、今の時点で話者が判断するというモダリティを表わすものである。「〜ところダッタ」はその過去形であり、過去形になることによってもともと持っていたモダリティ(話者の心的態度)の性格が失われ、過去の客観的な叙述(どのようなアスペクトにあるかを表現)する形式となる。
1)山田さんは<今> 本を読んでいるところダ。
2)山田さんは<今/ちょうど> 本を読んだ ところダ。
3)山田さんは<今/これから> 本を読む ところダ。
4)山田さんは<あの時> 本を読んでいるところダッタ。
5)山田さんは<あの時/ちょうど>本を読んだ ところダッタ。
6)山田さんは<あの時/あれから>本を読む ところダッタ。
*アスペクトとモダリティのつながり
「〜ところだ」は事象のアスペクトの側面を指定するので、基本的には<未然:スル><既然:シタ><進行中:している>の3つによって表わされるが、上の考察でみたように「タ形」がモダリティを顕在化する場合がある。そのような場合には「していルところだ」に対して「していタところだ」という形式が存在する。
この形式は「している」<進行中>であることを『確認した』というモダリティにさらに「ところだ」のモダリティがついているとみる。
1)山田さんは<今> 本を読んでいルところダ。
7)山田さんは<今> 本を読んでいタところダ。
7)のような形式は「タ」がテンスを顕在化したものではないので、過去にそのような事象が展開していたことを意味しない。あくまでもそのような事象が<進行中>の段階にあることを『確認した』ということと、そのような段階にあると『判断した』というモダリティを表わすものである。
正確に言えば、「テイルところだ」は『判断した』ということで、そこには当然『確認した』ということも含まれると思われるが、「〜ていタところ」はそれを顕在化させることによって上のモダリティの「ていた」の表現効果がより一層全面に出ると思われる。
もう一度問題の出発点になった文を見てみる。
場面:花子さんは友達どうしで友人の太郎君のことを話していた。そこへ太郎君が来た
会話:花子(ア)「あ、太郎君。今ね、太郎君の話をしていたところなの」
(イ)「あ、太郎君。今ね、太郎君の話をしているところなの」
(ウ)「あ、太郎君。今ね、太郎君の話をしているところだったの」
(ア)はモダリティが顕在化しており、花子さんの「情報を共有したい」という心的態度を表現するのに一番適当だと思われる。(イ)はモダリティが顕在化していないので、その点では中立である。いま何をしているのかをかなり客観的に伝えている印象を与える。中立的であるために、相手の太郎を部外者であるような印象を与えるかもしれない。(ウ)は「ところ」の持っているモダリティの要素が客観的になるために(イ)よりもいっそう物事を客観的に説明しているという印象を与える。しかし、それによって(イ)で感じられた相手を部外者であるような印象を与えることもないと言える。
「タ形」がもつ『確認』のモダリティというのは非常に場面依存的であるために、上のどの表現が適切かは一概に決められないとも言える。現在進行中であることを全面に出し、より臨場感を出すために(イ)を使うことも可能かもしれない。また、使用にさしては個人差もあると思われる。
ただ、一般的には話者の<プラス指向>の態度を前提とするなら(ア)が適当であるというのが本考察の結論である。
*なぜ「タ形」がモダリティをもつのか
それは恐らく<テンス>としての「過去」、<アスペクト>としての「既然/完了」を表わすこととつながっていると思われる。
つまり、既に起こったことは対象を確かに把握できるという事実があって、そこからその対象を確かに自分で『確認した』というモダリティにつながっているのではないか。
*他のモダリティとのつながり
従来「た」が表わすモダリティとして、現在のコトなのに「た」を使うことが特徴とされてきたのも今回の「〜ていた」のモダリティである『確認』と共通する点があるとみる。
以下の例は今回の『確認』のモダリティと全てではないにしても部分的につながっていると考える。
1)寒くなっタね
2)よかっタね
3)ああ、疲れタ
4)あ、来タ、来タ、やっとバスが来タよ
5)あ、こんなところにあっタのか
6)ご出身はどちらでしタかね
*『確認』のモダリティの意義
日本語はコミュニケーションにおいて、お互いのもつ情報の均衡/不均衡について非常に敏感な言語だと思う。それが<伝達態度>としてのモダリティにも表われ、終助詞の「〜ね/よ」をはじめ、<説明>のモダリティとして「〜んだ(〜のだ)」の使用は情報の不均衡をできるだけ均衡状態にもっていこうとする日本人の言語活動の表われであると考える。その活動において『確認』するという作業は欠かせないことである。それは対人関係において相手への配慮や、相手の気持ちを察することを尊ぶ文化が言語形式に表われているとも言える。このように考えると、「タ形」がテンスやアスペクトのみならずモダリティの要素まで持ち合わせるようになったのは自然なことだったのかもしれない。
実は今回の考察にあたっては特に参考にした文献はありません。(これが大学院のレポートだったらとんでもないことになるとは思いますが(^_^;)
ただ、モダリティにつての基本的な捉え方は『モダリティの文法』益岡隆志(くろし出版)の影響をうけています。特に、モダリティの形式が過去になるとどうなるかということについてはこの本の記述を参考にしました。
「ている」「ていた」についてのモダリティはまったくの私の仮説です。