#10 「よろしかったでしょうか」を聞きますか?使いますか?なぜ??

[前置き]

「よろしいでしょうか」と尋ねるべときに、「よろしかったでしょうか」と言いますか?
レストランでの接客でこの表現を聞いたという情報をメールでいただいて、もしこの表現がサービス産業のみならず、一般にもよく使われるようになっているとしたら、その理由は何かを考えて見ました。
本来は「よろしいでしょうか」だけで十分丁寧な表現になっているにもかかわらず、「よろしかった」を使う心理は何か? さらに丁寧化を求める心理の表われなのか?
好奇心をそそれられる問題です。

内容をお読みになる前に
注1)このような類のレポートにありがちな『内容はこれっぽちしかないのに、
   やたらと難しく書いている』ということが、このレポートにも見受けられるかと
   思いますが、その辺はあらかじめ覚悟してお読みください。
  
注2)前半の部分(最初のアプローチ)は現在参考書などでも扱っている文法を踏まえて書いた
   つもりなので、その妥当性はともかく、理解していただける部分も多いかと思いますが、
   後半の部分(もう一つのアプローチ)はかなり突飛な発想です。
   発想することに意義があるという姿勢で書いたものなので、かなり強引な結び付けだと
   いう印象を持たれると思います。こんな発想もあるのだとサラッと読み流すのがいいと
   思います。なにしろ全体の分量が多いので・・・(^_^;



[問題点]

レストランなどで店員が「ご注文の品はこれでよろしかったでしょうか」や「お皿のほう、お下げしてもよろしかったでしょうか」と言っているらしい。この「よろしかった」を使った表現は「よろしい」を使った文と何が違うのか。また、このような文は文法的に見て間違いなのだろうか。



[アプローチ]

「よろしかった」の「た」をモダリティの「た」と見て、話者の発話時の<心的態度>を考えることよってこの二つの表現の違いを分析してみる。
それを受けて、「よかった」の「た」がもつ<談話の結束性>について考えてみて、日本語の談話構造の枠組みの中での位置付けを試みる。



[モダリティの「た」について]

「た」がテンスやアスペクトではなくモダリティとして使われる場合がある。
その用法の一つに<想起>と呼ばれているものがあり、
(1)しまった、あしたは試験だった!
(2)お住まいはどちらでしたかね?
のようなものがその例として挙げられている。

どちらの用法も話者が過去にその内容を聞いて(見て)知っていたことを、
この場で改めて<想起>して自分に向けて(3)、
あるいは相手に向けて<確認>する作業で使われる。(4)(5)
(3)しまった、あしたは試験だった! 
(4)あしたは試験だったっけ?/だったでしょうか?
(5)あしたは試験だったよね/でしたよね

『日本語のシンタクスと意味II』(寺村秀夫)では上の用法を<忘れていた過去の認識を思い出す>用法として、「過去に聞いたり、考えたりしたことを、つまり過去にいったん認識したことを忘れていて思い出したということを表わすタの用法」としている。
興味深いのは、例えば(5)のような文の構造を(6)の「つづまったものと一般のnative speakerには直観的に理解される」としている点である。そして(6)の文の(〜と言う)の動詞の語幹が消去されて、その動詞がもっていたテンス表示がコトの内容と結合して(7)の文が生まれる、としている

(6)(あなたは/わたしに)あしたは試験だと言いましたよね
(7)あしたは試験だったよね

そして、このようなタのモダリティは名詞文、形容詞文、状態を表わす動詞文に表われる。


「これでよろしかったでしょうか」についての分析

本題の「ご注文の品はこれでよろしかったでしょうか」について
「よろしかった」の「た」を上の場合と同じと見るかである。
形容詞には確かに(8)のように上記の用法がある。
(8)あしたの天気は良かったよね。

しかし、「〜でよい」というのは評価判断の意味が含まれるので違うモダリティが表われているとも
考えられる。そこで下の(9)〜(11)の文を見てみたい。

(9)きのうの映画はよかったね。
(10)えっ、無事だったの。(それは)よかった。
(11)やっぱり来てよかったね。

(9)の文はテンスの要素が強く働いていると思われるが、(10)(11)は
<現時点の話者の主観的な感情の表出>のモダリティが強く機能していると見られる。
現に「いい」とは言い換えられない。
寺村(同上)では(10)(11)を<過去の期待の実現>の拡張例ではないかとしている。

「これでよかった」のタは<過去の期待の実現>と<想起/確認>の接点と見て、
<過去に期待されていたものと実現したものとを突き合わせて「これでいい」と主観的に判断を下す>と考える。
この<突き合わせる>という心理が今回の分析のキーワードとなる
この有無の違いは次の二つの文を比べたときにその意味合いの違いが読み取れる。
前者は現時点の有様それ事態を対象に判断をしているが、後者は過去に想定したものと現在の状況との<突き合わせ>の心理が働いた上で判断をしている。

 (場面:二人が結局離婚することになって、そのことについて自身で判断を下す)
(12)これでいいんだ。
(13)これでよかったんだ。

 (場面:指示されたように準備をしおわって、他者の判断を仰ぐ)
(14)これでいいでしょうか。
(15)これでよかったでしょうか。

他者に判断を仰ぐ場合には「いい」の代わりに「よろしい」を使って丁寧にするので、
その結果次の二つの文が生まれる。
さらに丁寧にするために<断定保留>の「でしょう」を付加する。

(16)これでよろしいですか/よろしいでしょうか。
(17)これでよろしかったですか/よろしかったでしょうか。

以上をまとめると、問題の文は(18)のA〜C段階を踏んで(19)として
生まれるのではなかと思われる。

(18)(あなたは/わたしに)注文の品ははこれだと言いました
    A→「注文の品はこれだった」   <自分自身に対する想起/確認>
    B→「注文の品はこれでよかった」 <自分自身で突き合わせて主観的な判断>
    C→「注文の品はこれでよかったですか」<相手の判断を仰ぐ>
                       
(19)「注文の品はこれでよろしかったでしょうか」<丁寧は表現にする>

ちなみに、もし友人同士であれば、(18)から(20)のような文が生まれると思われる。
(20)「・・・はこれでよかったよね/よな」

Bの段階で<突き合わせる>という作業を入れなければ、(21)の文が生まれる。

(21)「注文の品はこれでよろしいでしょうか」

それでは、この<突き合わせる>作業は話者のどのような心理から来ているのか、
またこの作業が入るかどうかで、表現効果にどのような違いが生まれるのか?
問題の文を再掲しておくと、
(22)<過去に期待されていたものと実現されたものとを突き合わせて判断を下す>
    「注文の品はこれでよろしかったでしょうか」

(23)<突き合わせる作業を意識せずに、現在の状況に対して判断を下す>
    「注文の品はこれでよろしいでしょうか」

以下の考察は今の段階では私の個人的な印象にすぎない。どれかは正しくてどれかは的外れかもしれず、
または、全てが見当違いかもしれない。それを承知でとりあえず、思い付いたものを列挙しておく。

*判断を求められた側の心理

 (ア)<突き合わせる>作業を明示されることによって、判断を下す余地が狭められると感じる
    つまり、合っているのか合っていなのかの二者択一のような印象を受ける。
 (イ)現実として、<突き合わせる>作業をするとしても、そのようなものを意識せずに、
    今現在の状況に対して判断を下すほうが心理的に感じる負担は少ないと思われる。

*判断を求めた側の心理

 (ウ)<突き合わせる>作業を明示することによって、確認の作業を明確に行いたいという
    心理が働いている。
 (エ)<過去に期待されたことと付き合わせて判断を下す>ことは<想起>を前提とする。
    <過去にいったん認識したことを忘れて思い出す>という意味合いが入ることによって、
    その過程には<間違い>も起こりうるということが認識されるている。
    つまり、『この判断は間違っているかもしれませんが、いかがでしょうか。
    大丈夫でしょうか』という意味合いが含まれることになる。
    ということは、話者の<責任回避>という心理の表われとみることもできるかもしれない。

*使われる場面による表現効果の違い

 1<判断を求められた人が対象となる事態に直接関与している場合>
  例)その作業を指示した人、注文をした人、など

(24)[指示を出した部長に判断を仰ぐ]
    「今日の会議の資料ができましが、これでよろしかったでしょうか」

 2<判断を求められた人が対象となる事態に直接関与していない場合>
  例)第3者に意見を求める

(25)[第3者に判断を仰ぐ]
    「部屋の模様がえをしたんだけど、カーテンの色、これでよかったでしょうか」
      注)第3者に尋ねているので「よろしい」は使えない

(25)の場合には自分自身が<突き合わせる>作業で判断に迷っている状況で、その自分の判断が
 良かったどうか尋ねている。その点、(22)のように相手に<突き合わせる>作業を求めている(24)と違って<控えめ>な印象を与えるであろうか?


「お下げしてもよろしかったでしょうか」についての分析

「〜てもよかった」の「た」も基本的に先の「〜でよかった」の「た」と同じと考える。
「良い」という判断を下すことは同じだが、その対象が実現したものではなく、これから実現することである。
<過去に期待されていたものとこれから実現するものとを突き合わせて「〜てもいい」と判断を下す>と考えられる。つまり「〜てもいい」と思う根拠を過去に期待されていたことと<突き合わせる>ことによって確かめる心理が働いていると考えられる。

(26)「今日は早めに仕事を終わってもよろしかったでしょうか」

この文が発話される背景には通常「ある事情で今日は早く帰ることができる」という状況が過去に存在している。その状況を受けて、だから「〜てもいい」と判断するところに「よかった」のモダリティの働きをみることができる。
または、より簡単に前に紹介したように『つづめる』という作業が介在している考えてもいいかもしれない。つまり、(25)から「た」だけが前の内容にくっついて(26)が出来たと考える。

(27)「今日は早めに仕事を終わってもいい」と「言っていた」
(28)「今日は早めに仕事を終わってもよかった+でしょうか」

これを問題の文に当てはめて考えると次のようになる。

(29)「お皿のほう、お下げしてもよろしかったでしょうか」

過去に「皿を下げる」ことを期待する状況が存在して、今のテーブルの状況からから考えて、それを今することが適当と判断して発話したと考えられる。

それではこの場合には<突き合わせ>があることでどのような表現効果が生まれるのであろうか。
二つの場面に分けて考えたい。

1<相手がその行動が取られることを望んでいる場合>

2<特に望まれているわけではないが、
  そのようなことが期待できるという状況があるという場合>

レストランの場合は1の例で、この場合には相手の望むこと<察する>ということがうかがえる。
2の場合にはそのような表現効果は生まれず、逆に、<突き合わせる>ことによって自身のとる行動に根拠を与えるような印象をあたえる可能性がある。





[もう一つのアプローチ]

「〜た」について、これはテンスなのかアスペクトなのかモダリティなのかと議論するよりも、そもそも日本語には<話者が自身が認知しそれと確認できた>ときに「〜た」と使うのである、と考える学者もいるようである。この議論の是非はともかく、日本語話者にとって「〜た」を使うことはこのような心理が働いているということは程度の差こそあれ、否定できないような気がする。このような事情を踏まえて、「よろしかった」の「た」を<談話構造>における<結束性>の一つの表われとして捉えることを提示したい。



[談話の結束性について]

個々の文はまったくでたらめに並んでいるのではなく、一つの流れを作って展開していく。それぞれの文がばらばらにならないように<結束>させているのが「指示詞」だったり「接続詞」だったりするわけだが、その中には『〜のです』という文もあると思われる。
そもそもなぜ会話が展開するかと言えば、新しい情報が次々と加わっていくからである。そして、重要なのはその過程で両者(会話参加者)の情報の不均衡が解消されていくことである。
日本語における<終助詞>の存在はこの情報の<不均衡>の認識と<解消>には欠かせない機能を担っていることをよく知られたことである。
一方「〜のです」は話者が提示した情報が今この会話でどのような意味を持つものなのかをキャッチするために欠かせないマーカーである。下の会話例を使ってその機能を取り出すと、

(30)A:山田さん結婚したそうですネ
(31)B:そうらしいですネ
(32)A:見合いだったンですか。
(33)B:そうらしいですよ。
(34)A:なんでも、1ヵ月で5回もお見合いしてやっと決まったらしいですよ。
(35)B:きっとあせっていたンでしょうね。
(36)A:実は母親にずいぶんとせかされていたンですよ。

(32)→(あ)前出のコトについて<付加情報を出す/求める>
(35)→(い)前出のコトについて<帰結説明をする/求める>
(36)→(う)前出のコトについて<背景説明をする/求める>
        ※通常<理由説明>と言われるもの

つまり、日本語の談話は<終助詞>を駆使して、お互いの情報の不均衡を認識しながら、
「〜のです」を使って、話者が必要と感じた情報を出したり、求めたりしながら展開していくと言える。
特に、(あ)〜(う)を述べる際にそれをマークするもの(「〜のです」)があり、それを使いこなすことでうまく会話が進展すると言える。



*「よかったでしょうか」と<談話の結束性>

「よい」という判断を下す形容詞が「よかったでしょうか」と「〜た」の形になる文法現象を先の分析でキーワードとして挙げた<突き合わせ>だとしたら、これは<過去に期待された事態>と<現在実現された事態>または<これから実現する事態>を会話の展開の中で結び付ける<結束性>を明示する一つのマーカーとして機能していると言ってもいいのではないか。
(あ)〜(う)のような書き方にまとめれば(え)のように簡単に記述できるかもしれない。

(え)前出のコトについて<判断を求める/下す>

ただ、このように書いた時に注意しなければならないのは、
単なる過去の事態についての判断ではないということである。

(37)あの人は去年は良かった。でも、今はちがう。

このような「よかった」と基本的に異なるということである。
あくまでも<現状についての判断>でありながら、<過去のコトと心理的に結び付けてる>ことによって、判断を求めたり、下したりするのである。



*まとめ

<突き合わせる>をキーワードに「よろしかったでしょうか」を考えてきたが、レストランのような接客の場面では「〜でよろしかったでしょうか」が果たしてお客にいい印象を与えるているのかは不明である。
ただ、従来の「よろしいでしょうか」を使わずにこのような表現が使われているとすれば、そこには話者の何らかの心理が働いているはずである。
くどいことを承知で再度問題点を挙げれば、<想起>にしろ<確認>にしろ「た」のこのような使用は別に珍しいものではない。ただ、従来、判断を求める際には「〜でよろしいですか」「〜てもよろしいですか」と言われていたものが、なぜ「〜た」の形をとるのかということである。
この分析では、その心理は<丁寧化>ようなものではなく、<背景>があればそれを、<意義>を認めればそれを「〜の」でマークしたように、このような日本語がもつ基本的な談話の結束性のマーカー表示が、<具体的>なものからより<心理的>なものに拡張され、「よいですか」などの判断を求める文にも「よかった」の「た」が、<結束性>を示すマーカーとして使用され始めているのではないかと考えてみた。これがどのような意義をもつのかはいまのところ判断ができない。ただ、<談話の結束性>という視点から言えば、話者の相手に対する会話の共同作業への積極的な働きかけと思われるので、会話をスムーズに進めようという心理が働いているような気がする。

実は、「〜のです」文や終助詞の働きを勉強したときに、『日本人というのはお互いに情報がどういうものかを非常に意識しながら会話をやりとりしているものだな』と思った。別な言い方をすれば、『情報がどういうものかを「確認」しながらでないと会話が展開しないのだな』と思ったのである。その延長として今回の「〜た」の文を考察してみたという経緯がある。
先の文化庁の国語にすいての意識調査でもわかったように、特に現代の若者は自分の意見をできるだけぼかして間接的に言おうとしている。それに対して「よかったでしょうか」のような「〜た」の使用は相手への心理的接近と考えることができるのか、それとも自分発言に自信がないからその根拠を暗示するために「〜た」を使っていると考えるのが正しいのか。どっちなのだろうか。それともどっちでもないのだろうか。

以上、「た」のモダリティを出発点に、その表現の効果と心理を考察してみたが、そもそもこのような前提が間違っているかもしれないし、同じ前提でもまったく違う結論が出るかもしれない。
ここでは文法的に非文とは考えなかったが、もしかしたら「よろしい」を「よろしかったですか」と問いかけに使うこと自体が間違いだと考えることも可能かもしれない。



*補足

私の知り合いの教師に「よかってでしょうか」の印象を尋ねたところ、レストランなどで「〜はこれでよろしかったでしょうか」と「〜た」の形は聞き覚えがないとした上で、もしあるとしたら、「〜い」よりも、その音の響きから丁寧に聞こえるかもしれないということ、<責任の所在>という点では「〜た」の形が「店側」に「〜い」の形が「お客側」にあるという印象を受けるなどの指摘があった。
実際にどのような印象を受けるかは人によってまちまちなのかもしれない。これを機に他の方がどのように感じるかをぜひ知りたいと思っている。



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