「〜してもらう」と「〜される」(受け身) [コメントする]

「〜してもらう」と「〜される」(受け身)


過去ログ(管理人) さんのコメント
 (2003/10/16 14:21:52)

※これは過去ログを整理したものです。(管理人)

No.796
投稿時間:03/07/19(Sat) 11:32
投稿者名:aaa
Eメール:
URL :
タイトル:「てもらう」と受身

「私は先生に発音をほめてもらってうれしい。」
「私は先生に発音をほめられてうれしい。」
両者を比べた場合、「ほめられた」より「ほめてもらった」のほうは、うれしい気持ちが強く感じ取られるでしょうか。その他にどんな違いがあるのでしょうか。それから、次の用例について、「(ら)れる」に置き換えられた場合、どんなニュアンスの相違があるのでしょうか。ひがみっぽく、非難が強く感じ取られたりすることがあるのでしょうか。
「この子はこの近所の人にかわいがられ、ご飯をもらっているんだろうな。」と思ったその時花屋の店員らしきひとが寄ってきて、『餌をやってもらっちゃ(やられちゃ?)困るんです。 ここに張り紙してありますでしょう』」
「だんだんでんでん虫離れしてきたぞ。 ずっと眠っててもらっちゃ(ねむられちゃ?)困るんですよ。 たたき起こしちゃいましょうか。(ご無体な)冬眠中を無理にたたき起こされ、 枯れ枯れの身体に水分補給している。」
「この方法はガスの漏れはある程度あるかも知れないが、「1年に1例」程度なら、流量を思いきり上げても、看護婦さんに患者の右頬を上げてもらっても(上げられても?)、許されるのではないだろうか」
「薄いほどカリッと仕上がります。. 3」伸ばしたら、フォークで穴をあけます。横一列にフォークでさし、次の行もまた横一列ってな感じ。でも適当に穴をあけてもらっても(あけられても?)かまわないです。」
  「アマチュア四段の資格ってなんだろう? 将棋道場で四段と認定されるもよし、将棋世界の四段コースでもよい。 プロと指してみとめてもらっても(みとめられても?)良い。」

No.798
投稿時間:03/07/21(Mon) 01:54
投稿者名:Oyanagi
Eメール:oyanagi@tky2.3web.ne.jp
URL :
タイトル:参考になる記事・文献を紹介

aaaさん、こんにちは。管理人のoyanagiです。

受身文と「〜てもらう」の共通点、相違点についてのご質問だと思いますが、これについては、まずは下に書きました記事、文型を御覧になって下さい。

「てもらう」と受身文についての考察は、過去の一度この掲示板にアップされていますので、まずそちらを御覧下さい。
→http://cgi3.tky.3web.ne.jp/~oyanagi/bbs/wforum.cgi?mode=allread&no=814&page=0
(注:上のリンクは管理人によって修正されました。2003.7.28)
(注:このリンクの内容は過去ログ整理により、この記事の下に転記しました。2003.10)

この記事は拙ホームページの「文法考察ファイル」#15に基づいていますので、より詳しく知りたい場合はそのファイルもご参照ください。
→http://www3.tky.3web.ne.jp/~oyanagi/studyroom/15.html

また、この考察の後、同様の趣旨で大学の先生がまとめられた論文があることがわかりましたので、そちらもあわせて御覧下さい。
→『被害受身文と「〜にVてもらう」構文ー機能的構文論による分析』高見健一「日本語学4月臨時増刊号2000vol 19」明治書院

本日インターネットで検索したところ、同じ論文がインターネット上で閲覧できることがわかりましたので、もし書籍が入手できない場合は、こちらでどうぞ。
→http://coe-sun.kuis.ac.jp/coe/public/paper.html
上記アドレスの神田外語大の論文アーカイブに入っています。

以上の参考記事、文献を御覧になって、なお不明、疑問がありましたら、ご自身のお考えを添えて、またご投稿ください。

もしかしたら、上記の参考記事、文献はもうお読みになっての投稿なのかもしれませんね。
その場合には、もう一歩踏み込んだ考察が必要になるかもしれません。こちらの掲示板では省略されていますが、日本語オンラインの掲示板の内容を見るて、そう思った次第です。
とにかく自己紹介もないですから、どんな立場の人がこれについて考えているのかわかりませんので、論点がもう少し絞れたら、それについて私のほうも考えてみたいと思います。とにかく興味があるテーマであることは確かです。


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No.814
投稿時間:03/07/28(Mon) 05:21
投稿者名:管理人
Eメール:oyanagi@tky2.3web.ne.jp
URL :
タイトル:消失ログ一部復元(#495)

#798で引用している記事のみ一部復元しておきます。

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投稿時間:02/11/13(Wed) 13:39
投稿者名:ひろき
Eメール:honjo5@hotmail.com
URL :
タイトル:ほめてもらうとほめられる

はじめて投稿します。
受身の表現の中にうれしいと感じる場合に使う表現があると思いますが、
例えば、
私は先生に作文をほめられた。
私は彼にパ−ティ−へ招待された。
私はみんなに愛された。
一方、授受表現を使って、
私は先生に作文をほめていただいた。
私は彼にパ−ティ−へ招待してもらった。
私はみんなに愛してもらった。
という表現を使ってうれしいという気持ちを表すことができると思います。
しかし、次のようなことが書かれている本があります。
アルク社「どんなときどう使う日本語表現文型200」の「19-3V(ら)れます(被害の受身)」にある解説に『うれしい気持ちを表したいときには、「Vてくれる」や「Vてもらう」を使う』とあって例を次のように書いてあります。
きらいな人がずっとそばにいられて、いやでした。
好きな人がずっとそばにいれくれて、うれしかったです。
親切な人にずっとそばにいれもらって、うれしかったです。
しかし、実際は受身でもうれしいという気持ちを表すと思うのですが、
日本語学習者には実際どのように教えていますか。
またこの受身と授受の表現を実際、どのように使い分けをしているだろうかと自分なりに考えたり、用例を集めたりしているものの、うまく整理ができませんが、なんとなく感じていることをあげてみますので、何かご意見をいただければ幸いに思います。
1.お礼などを相手に述べるときは、授受\現しか使わない。
○ご招待していただきまして、ありがとうございます。
×ご招待されまして、ありがとうございます。
2.授受の表現のほうが依頼した結果という感じがする。
今までほめられたことがなかった父に初めてほめられた。
今までほめてもらったことがなかった父に初めてほめてもらった。
今までほめられたことがなかった父に初めてほめてもらった。
今までほめてもらったことがなかった父に初めてほめられた。
3.授受の表現のほうが「〜してほしい」と相手に対して思っているとき、それが実現したという感じがある。(2に関連して)
4.純粋にうれしいと感じたとき、受身を使うほうが多い気がする。
私は彼女にほめられると、うれしくなる。
私は彼女にほめてもらうと、うれしくなる。
以上、長くてすみませんが、よろしくお願い致します。

No.815
投稿時間:03/07/28(Mon) 05:23
投稿者名:管理人
Eメール:oyanagi@tky2.3web.ne.jp
URL :
タイトル:RE:「ほめてもらう」と「ほめられる」

ひろきさん、はじめまして。管理人のOyanagiです。

ひろきさんの挙げた使い分けへのコメントが一番最後になりますが、そのほうが説明がしやすいので、長いですがおつきあいください。
まず、導入として簡単に受け身と「〜てもらう」の2つの構文をまとめておきます。
(これはアルクの参考書の解説にちょっと補足したものです)
次に、それに使役を加えた3つの構文について私が考えたことをまとめておきます。
最後に、それを踏まえてひろきさんが挙げた使い分けについてコメントを書きます。

■受け身と「〜てもらう」

★ポイント★
「ほめる」「招待する」のような動詞については、(文法書などでは)『語彙的』な理由で受け身文でも「被害」の意味ではなく、「利益」を受けるという意味になると説明されていると思います。実際、初級で扱う語彙に限れば、『そのような意味になる単語があります』だけで処理できるのだろうと思います。

受け身も直接受け身と間接受け身がありますから、それを区別してもう少し詳しく書いておきます。

(ア)<直接受け身>構文は視点を仕手から受け手に変えて述べる構文ですが、人が主語になる場合には通常、「被害を受ける」という意味になる。(※それがなぜかは次のツリーのまとめをお読み下さい)

(イ)しかし、「ほめる」「招待する」のような動詞はその語彙特徴からして、受け身の場合でも「被害を受ける」という意識にはならない。
   例「私はほめられた」「私は〜に招待された」

(ウ)一方、その人が受けた行為がその人にとって利益であると認識された場合は、日本語では特別に「〜てもらう」という構文があるので、それを使うことによって、<直接受け身>構文のように客観的に述べるだけでは表わせないない、話者の態度が明示される。
   例「私はそのパーティに招待された」(出来事の叙述)
    「私はそのパーティに招待してもらった」(出来事の叙述+私の態度=事態の捉え方)

    ◯「私は先生にほめられたけど、ちっともうれしくなかった」
    ?「私は先生にほめてもらったけど、ちょっともうれしくなかった」
      (「〜てもらう」と「うれしくない」がバッティングしてちょっと不自然?)
    ◯「先生はほめてくれたけど、ちっともうれしくなかった」
      (「〜てくれる」を使えば問題なし)
 
(エ)「〜てもらう」とは反対に、その人が受けた行為がその人にとって被害だと認識された場合には、日本語では<間接受け身>構文を使うことでそのような話者の態度を表わすことができる。

※「ほめられる」は語彙的な理由で、この<間接受け身>であっても利益を受けたという意味になることは事実ですが、被害を受けたという意味で使うことも”可能”だと思います。これが<直接受け身>とは違うことです。ですから、<間接受け身>の基本的な用法があり、その上で、「ほめる」のようなものは語彙的な理由で利益の意味にもなると考えるのがいいと思います。
   例◯「私は弟をほめられて、鼻が高かった」(利益の意識)
    ◯「(私は)あんな腹黒いやつに彼女をほめられて、気分が悪かった」(被害の意識)
    ?「(私は)あんな腹黒いやすに彼女をほめてもらって、気分が悪かった」

■Oyanagiのまとめ(もっと詳しく)

(1)受け身と使役と「〜てもらう」

「〜てもらう」という構文は「テ形+もらう」という形式ですが、一方で「受け身(〜られる)」に、もう一方では「使役(〜させる)」とつながりがあると考えられます。
ですから、ひろきさんが気になったように、どこかでつながりあり、『使い分け』がされていると考えられます。

ひろきさんは「受け身」との使い分けだけを挙げていらっしゃいますが、「使役」とのつながりもあります。
      『母が私の髪を切る』
        ↓ ↓ ↓
日本語1:「私は母に髪を切ってもらった」(〜てもらう)
日本語2:「私は母に髪を切られた」   (受け身)
日本語3:「私は母に髪を切らせた」   (使役)

「母が私の髪を切る」という事態は同じなのですが、私がその事態をどう捉えるかによって日本語を使い分けています。
このようなことを考えると、アルクの参考書の解説は別に間違ったことを書いてあるわけではないことがわかります。
ですから、「ほめられる」と「ほめてもらう」の違いを考える際には、これを土台に据えて考える必要があります。

(2)土台となるもの

日本語1【XはYニ〜てもらう】

 ★XはYに働きかけて
 ☆Xは(Xにとって)意図(期待)した行為を受ける
 ◎つまり、XはYから利益となる行為を受けたと認識する

日本語2【XはYニ〜られる】

 ★XはYに働きかけていないのに
 ☆Xは(Xにとって)意図(期待)しない行為を受ける
 ◎つまり、XはYから被害となる行為を受けたと認識する

日本語3【XはYニ〜させる】

 ★XはYに働きかけて
 ☆Xは(Xにとって)意図(期待)した行為を実現させる
 ◎つまり、XはYを支配していると認識する

このように整理してみると、
「〜てもらう」という構文は、「☆行為を受ける」という点で受け身とつながり、「★Yに働きかける」という点で使役とつながっていることがみてとれます。

(3)土台に積み上げる部分

日本語1の場合
 △「Yに働きかける」ということが、意識のされかたの程度によって
   1)強い:「こちらから頼んで、その結果利益を受けた」というイメージが生まれる
   2)弱い:「〜てくれた」とほとんど同じように、「単に利益を受けた」というイメージが生まれる

日本語2の場合
 △「意図しない行為を受ける」ということが、<間接受け身>という構文にように第3者をたてる場合には、<被害>の意識を明確にする

日本語3の場合
 △「Yに働きかける」ということが、その程度によって
   1)強い:<強制使役>と呼ばれる用法「母は子供にきらいな野菜を食べさせた」
   2)弱い:<許可使役>と呼ばれる用法「母は子供を行かせた」(=行くことを許可した)
  ※どちらにしても、相手を行動を支配しているという認識にはかわりがない

日本語1と3について
 △両者は「Yに働きかける」という点で共通しているが、次のように連続してつながっていると考えられる。
   A)「〜させる」 →1)【命令】    (〜しなさい) (命令使役)
             2)【許可】    (〜してもいい)(許可使役)
   B)「〜てもらう」→3)【依頼・お願い】(〜してください)

■ひろさんの整理した特徴についてコメント

上のまとめに沿って1〜4つの特徴を考えてみたいと思います。

> 1.お礼などを相手に述べるときは、授受表現しか使わない。
>  ○ご招待していただきまして、ありがとうございます。
>  ×ご招待されまして、ありがとうございます。

「お礼」の述べる、のように明らかに<利益を受けた>ことを明示する場合には「〜てもらう」を使うのが自然でしょう。

> 2.授受の表現のほうが依頼した結果という感じがする。
>  今までほめられたことがなかった父に初めてほめられた。
>  今までほめてもらったことがなかった父に初めてほめてもらった。
>  今までほめられたことがなかった父に初めてほめてもらった。
>  今までほめてもらったことがなかった父に初めてほめられた。

この「依頼した結果」の部分が、上のまとめの△の部分と一致しますね。

> 3.授受の表現のほうが「〜してほしい」と相手に対して思っているとき、それが実現したという感じがある。(2に関連して)

これは1(:土台の部分)について見方を変えたものですね。
結果として利益を受けたのだから「〜てもらった」を使うという流れもあるし、利益を受けたいという意識があったからこそ「〜てもった」を使うのだという流れもあるでしょう。

> 4.純粋にうれしいと感じたとき、受身を使うほうが多い気がする。
>  私は彼女にほめられると、うれしくなる。
>  私は彼女にほめてもらうと、うれしくなる。

確かに述語が「うれしい」の場合には「ほめてもらうと」のほうがやや不自然かなと思います。
おそらくこれは(最初のツリーでまとめたように)「ほめる」は語彙的な理由で受け身構文でも「被害」の意識は生まれないので、「うれしい」という気持ちを表現する場合(=利益を受けたことを示す場合)でも、それにあわせて「〜てもらう」を使わなくてもいいということだと思います。むしろ、それをつけてしまうと、余分な印象をあたえてやや不自然な文になるのではないでしょうか。「ほめる」「うれしい」を離れて、他の文を観察すると、基本どおりになると思います。

 例「彼に揉まれると、翌日体が痛くなる」
  「彼に揉んでもらうと、翌日は体が楽になる」

  「そういう優しい言葉を一言でもかけられると、よけいにむかつく」
  「そういう優しい言葉を一言でもかけてもらうと、元気が出る」

※もしかしたらほかに理由があるのかもしれません。ほかの理由も考えたのですが、つめがいまひとつなので、またよく考えてから投稿します。

以上、長々と書いてしまいましたが、不明な点があれば遠慮なくご質問ください。
「〜られてもらう」(受け身+てもらう)
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No.797
投稿時間:03/07/19(Sat) 11:36
投稿者名:aaa
Eメール:
URL :
タイトル:「れてもらう」について

「〜(ら)れる+てもらう」の用法については、初めてネットで知りましたが、これは「〜(ら)れる」「てもらう」の用例とどう違うのでしょうか。例えば、最初の用例、
  「こんな面倒な事にならなくてすんだのに」 「んなこと言ったって。俺の良心がとがめるからさぁ・・・・」「へえ〜。あんたにそんなものがあったの、初めて知ったわ」 「この子にここで泣かれてもらっちゃ困るんだよ」
と、
「この子にここで泣かれちゃ困るんだよ」
「この子にここで泣いてもらっちゃ困るんだよ」
とは、どういう相違があるのでしょうか。以下の「〜(ら)れる+てもらう」は、「〜(ら)れる」、「てもらう」に置き換えられるでしょうか、どんな相違があるのでしょうか。
今後の展開方向,その他 村では,低農薬・有機肥料で生産された農産物を安全でおいしい差別化商品として,首都圏の人々に信頼して受け入れられてもらい,リサイクルが可能で環境にやさしい農業を実現することにより
たわね?いくら南さんが美人だからって手出しちゃダメよ」 「あらやだ、詠美ちゃんたら♪」 「あんたには王子に会ってもらわなきゃあたしたちの給料に関わるのよ。こんな年増に目を奪われてもらっちゃ……」
まだそのことを冷静に「ことば」に出来ないのです。きっと永遠に。それはことばではない。人を悪人と決めることで救われるたちのものでもない。むしろ自分を辛い目に遭わせた人にこそ救われてもらわなければ
「交代でお風呂へ行き,決して部屋をあけてはならない。 一つ,仲間が病気になったら,全員でありったけの手を尽くし看病する事。 一つ,道中で他の人と仲良くなって,これはいい薬だからと言われてもらっても絶対飲まない」
 お教えいただければ幸いです。ありがとうございました。

No.799
投稿時間:03/07/21(Mon) 01:56
投稿者名:Oyanagi
Eメール:oyanagi@tky2.3web.ne.jp
URL :
タイトル:「なんとかしなくちゃ」の気持ち?

このように「受身」の概念をもつ形式を二つ連続して使用するということは、現代の用法としては「余剰」と感じるのが普通でしょうね。ただ、使用例がそれなりにあるとなると、このような使用に際して、「合理的」な判断が働いているとも考えられます。
一見すると誤用であるかのように見えるものの、存在意義を考えてみることは、非常に面白い(?)ことで、私も興味をそそられます。下記の考察は、そのような興味本位の考え方の域を出ないものですから、これを参考にご自身でもお考え下さい。

■考察の出発点

どのように考えるには、一番目の投稿にあったような「〜てもらう」と「受身」との接点を確認して、「〜てもらう」の“拡張”を検証していくのがいいと思います。

一般的に「余剰」と感じられる表現が生まれるのは、話者の<心的態度>によります。二重敬語だったら、聞き手、または対象となる人物に対して敬意を表したいという態度が過剰に表れるわけですね。「〜てもらう」を使う<心的態度>と<(ら)れる>の受身形式を使う<心的態度>の両方をもって示した<心的態度>とは何か、それが問題だと思います。

私自身、このことについて詳しく考察したことはないですが、aaaさんが、日本語オンラインのほうの掲示板に書いた次のような用例は非常に示唆的なものだと思います。それ自体は特に真新しい発見でもなんでもないと思うのですが、そのような構文の位置づけというのが今の日本語の文法研究の中で具体的にどう取り扱われているか、不明です(これは私が単に知らないのかもしれません)。

http://nihongo-online.jp/tree01/treebbs.cgi?log=2417

>1、「〜てもらう」の前の助詞ですが、ふつう「田中氏に講演をしてもらった」というように「に」を使うことが多く、そして、
>「雨が降ってもらっては困る」
>「こんなとき花が咲いてもらっては困る」
>「あんなやかましい車がふえてもらっちゃー困る。この環境問題が取り上げられているご時世にねぇ」
>のような客観的な自然状況を描写する自動詞の場合、その前の助詞は、「が」しか用いることができないといわれましたが、次の用例の場合、がは、「に」に置き換えられるのでしょうか。もし置き換えられるのでしたら、ニュアンスも同じでしょうか。
>「昔から「官尊民卑」の風潮がわが国で根強い。それは改めたいが、官公庁に働く人が気概をなくしてもらっては困る。」(朝日社説)

一般に迷惑受身と称される構文を観察すると、「迷惑」だからといってそれらがすべて「〜に〜(ら)れる」という間接受身構文で表現できるわけではありません。

上の文では、「雨」「風」のような天候を表すものは、自然の力というものを「人」のそれと同等にみて、(例外的に)間接受身文として「雨に降られて困った」と言えますから、aaaさんが挙げた文の中からは除外されるべきでしょう。
それ以外の文について考えてみます。

aaaさんが挙げた文(後の2つはoyanagiが補足)は「ニ格」を使った受身文が不適格です。
「花が咲く」→×「(私は 庭に嫌いな)花に咲かれて、困った」
「車が増える」→×「(住民は 排気ガスをまき散らす)車に増えられて、困った」
「カギがなくなる」×「(私は)カギになくなられて、困った」
「パンが売り切れになる」→×「(私は 毎日買っている)パンに売り切れになられて、困った」

このような、物が主語になり、その物がどうなったかを述べる構文(自動詞構文)は、その主語には、それを引きおこす「意志」というものが存在せず、したがって、(その構文自体は)その主体が「それがおこならないように」コントロールすることができないものです。このような事態を表す構文は、ニ格の受身分(迷惑受身文)が出来ません。

ちなみに、意志を持つ主体に変えた文であれば、迷惑受身文が成立する。
「じいさんが花を咲かせる」→(私は うらの)じいさんに花を咲かせられて、困った」
「メーカーが車を増やす」→(住民は 利益しか考えない)メーカーに(排気ガスをまき散らす)車を増やされて、困っていた。
「弟がカギをなくした」→(兄は)弟にカギをなくされて、困った。
(※「売り切れる」他動表現がないので、受身文はなし)

このようなことを踏まえて、問題文を考えると、次のような考え方もできるのではないかと思います。

■「〜が〜てもっては困る」構文の一つの考え方

本来「迷惑受身」として成立しない事態を、「迷惑」を「受けた」として表現した場合に、事態をまるごと取り上げて、それを「〜てもらう」(=受ける)と表現することによって、そのような心的態度を表す。

つまり、
「〜に〜(ら)れる」のように、「ニ格」を使っては表せない。
「〜に〜てもらう」では、利益の授受を表しています。
結局、“既存の形式”を利用するとなると、
★【  出来事  】てもらう
のように、主体「が」→「に」に変わることなく、「が」はそのままで、まるごと第三者が迷惑を「もらう」という構文ができたのではないかと考えます。

この場合は、「〜てもらう」が本来の受益構文の形式であることから離れて、「受ける行為」を表す形式に拡張していると考えられます。

■それが「れてもらう」とどうつながるか?

さて、これがどのように標記の問題とつながるかですが、私の考えでは【責任の所在】の対する認識と関係しているのではないかと思います。

>「昔から「官尊民卑」の風潮がわが国で根強い。それは改めたいが、官公庁に働く人が気概をなくしてもらっては困る。」

もしこの文を「公官庁に働く人に」と「ニ格」を使ったら、“そのような事態を引き起こす【責任】がある”存在としての認識が強くなりますが、「ガ」のまま、全体を受けて「〜てもらう」を使えば、そのような意識が薄れて、間接的に指摘するにとどまると思います。
つまり、次のように考えます。

★迷惑受身文で「ニ格」にたつ者
 =受け手がその迷惑の事態を引き起こす主体として、“そうならないようにコントロールする責任がある”存在であると認識する

★「てもある」構文で「ニ格」にたつ者
 =受け手の働きかけによって、受け手によって利益になるような事態を引き起こす存在であると認識する。
 →すなわち、そのような事態を引き起こすにあたっては、受け手の働きが認められるので、
  受け手にも【責任】があると認識される。
※なぜ「てある」構文で、受け手の働きかけを想定するかについては、先の投稿で紹介した文法考察ファイルをご参照ください。

このように【責任の所在】の認識を考えると、「れてもらう」を使う<心的態度>を次のように分析できます。

★結果的に、受け手は「ニ格」にたつ者の行為によって迷惑を受ける
 →受身構文
★しかし、その行為は、受け手側の(非意図的であはあれ)働きかけが認められるので、そこに一種の【責任】を感じる。
 →「てもらう」構文

このような二つの認知の仕方が組合わさってできたのが、「れてもらう」構文だと考えられます。

例えば
(1)「こんな時に泣かれちゃ困る」
(2)「こんな時に泣かれてもらっちゃ困る」

(1)は、単に、「その人がこんな時に泣く」コトによって、受け手(話者)が迷惑を被ったという意味する構文
(2)は、(1)のような事態の捉え方に加えて、「泣く」という事態を引き起こさないようにする(=コントロールする)責任が受け手側にあると認識される
→★つまり、それに対してなんとかしなくちゃ、という事態の認識を表す、そんな場面での使用が多いのではないでしょうか。

このような話者の<心的態度>を想定すると、aaaさんが挙げた他の文の解釈もうまくできるのではないかと思いますが、いかがでしょうか。
もちろん、「れてもらう」の文例のすべてが同じ程度に自然な文かというとそうではないと思いますが、自然に感じる文であれば、上のような解釈が成り立つのではないかと思います。

いつもながら、思いつきにまかせて書き進めていますので、何かおかしいところがあると思いますので、どうぞご意見、ご批判をお願いします。


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