oyanagiの勉強部屋 掲示板


(since 2006.10.20) (今日) (昨日)

閲覧は自由にできますが、投稿するにはユーザー登録が必要です。(だれでも自由にできます)
 【こちら】の利用規程に同意の上、登録手続きにお進みください。

スレッド作成 || スレッド一覧 || ウォッチリスト || 終了

このスレッドをウォッチリストに追加 (ウォッチリストから削除)
「みたい」「よう」の使い方 スレッド削除
No.37-1 - 2010/02/18 (木) 12:07:28 - たなえ
「私は先生の娘のようです」
と言われたときに違和感があるのはなぜでしょうか。

「私は先生の娘のようなもの」と言えばだいぶ自然になると思うのですが、
それはなぜてしょうか。

ようです」と「ようなもの、の使い分けはどこにあるのでしょうか。

ようなもの」は他の可能性も示唆しているのだと思いますが、

ようです」は話者の自分の比喩に対する断定的な気持ちを
表していると思いますが、
まさしく、「私としては娘のつもりです」という意味で
使っているのであれば
「私は先生の娘のようです」は正しいのでしょうか。

こんがらがります。

すみません、お助けいただけますとさいわいです。
 
このスレッドにメッセージを投稿


10件 ( 1 〜 10 )  新 | 古  1/ 1. /1 [ ▼降順 | ▲昇順 ]

(無題) 削除/引用
No.37-10 - 2010/03/07 (日) 23:57:40 - たなえ
oyanagi様、ありがとうございました。

毎回、大変に参考になります。

本件ももう一度よく考えてみます。

ありがとうございました。

補足(その2) 削除/引用
No.37-9 - 2010/03/01 (月) 01:40:45 - oyanagi◆t0YRevJB
■補足(その2)
これまでの投稿は(1)のような場面を想定してなぜ違和感があるのかを考えていたのですが、(2)のような場面を考えると問題の日本語は不自然ではなくなると思ったので、それについて書いておきます。

(1)直接相手(=先生)に向かって「私は先生の娘のような存在です」ということを言いたい場合

   → ?? 「私は先生の娘のようですね」

(2)自分と先生が一緒に何かしている様子を撮影したビデオをみながら、
   2人のやりとりが「まるで母娘のように見える」ということを言いたい場合

   → 「私は先生の娘のようですね」

最初のたなえさんの質問は、(1)の状況でどうして違和感があるかということだったと解釈しましたが、(2)のような状況であれば、2人の関係を一つの喩えとして「〜ようだ」と述べるのは問題ないと思います。

言い切りの「〜のようだ」と言う場合に何か制約があるのではないか、それから「娘のようだ」でどんな意味を伝えたかいのか、という方向で考えてみるといいかもしれませんね。

さらにもう一言 削除/引用
No.37-8 - 2010/02/28 (日) 05:56:44 - oyanagi◆t0YRevJB
実は、最初にこの問題を考えたときには、「視点の制約」のようなものを想定して、それにひっかかるのではないかと思いました。今でも何かもやもやするものを感じますが、先に投稿したような考え方を提案することになりました。「待遇表現の制約」と「視点の制約」はまったく異なるものではないと思いますが、もしかしらた、視点の制約で簡単に説明できる問題なのかもしれません。

この掲示板をご覧の方からのコメント、ご批判、お待ちしております。
よくあることですが、問題の文を何回も読んでいるとだんだん語感がおかしくなってきます(笑)ほかの方の語感をぜひお聞かせください。

補足とまとめ 削除/引用
No.37-7 - 2010/02/28 (日) 05:48:25 - oyanagi◆t0YRevJB
■補足
 たなえさんの投稿にあった次の指摘について、先の回答では不十分だったので、その点に関して補足しておきたいと思います。

---(引用開始)---
「私としては娘のつもりです」という意味で使っているのであれば「私は先生の娘のようです」は正しいのでしょうか。
---(引用終了)---

 先の投稿では「〜ようなものだ」について私は次のように書きました。
---(引用開始)---
このような「もの」と「よう」が組み合わさると、「喩えることによってそのものの本性を描写」することになります。
---(引用終了)---

 私の提案した「待遇表現の制約」という考え方に引き寄せて考えると、もし「私としては娘のつもりです」を(16)のような表現意図として解釈するなら、これは「謙遜」または「卑下」と考えることができるかもしれません。

(16)(あなたはそう思っていないかもしれなけど、)私はまるで【先生の娘】のように、従順です。

 つまり、「娘」という単語がもつ(百科事典的な経験から得られる)「娘は親の言うことに従う」という意味特徴に焦点があたるということです。そう考えると、「○○の娘のようだ」と言い切りで使う場合(=プラス評価の押し付けになる場合)と違って、「謙遜」の側面に焦点をあてることができるのが「〜ようなものだ」だと言えそうです。
 「〜ものだ」がもつ「ものごとの本質・本性」を述べるという働きが、この表現では「あなたはそう思っていないかもしれなけど、実は・・・・なんだ」という捉え方とつながっているのかもしれません。それが「娘」「親」となったときに、ある種の「謙遜」の態度が現れることにつながるのかもしれません。
 ですから、(16)ではなく、それが「愛おしく思う存在」という意味特徴であったとして、(17)のようにと一歩引き下がって謙遜の態度を示してると考えることもできるでしょう。まあ、これはあくまで自分の考え方に引き寄せた見方であって、都合よく解釈しただけなのかもしれません。

(17)(あなたはそうおもっていないかもしれないけれど、)私はまるで【先生の娘】のように、あなたにとって愛おしく思ってもらえるような存在です。

 それでは、(12)ではなく、(17)のような言い方をする場合に、母語話者はどのような心的態度をそこに込めているでしょうか。
(12)私は山田さんの母親のようです。
(17)私はあたなの母親のようなものです。

 ここにもある種の「謙遜」の態度が現れているのでしょうか。もし「庇護を与える・愛情を注ぐ存在である」という意味特徴に焦点をあてているとしたら、上から見下した態度になるでしょうか。それとも、「(あなたはそう思っていなかもしれなけど、)“困ったときには”庇護を与える・愛情を注ぐことが“できる”存在である」と、一歩下がって述べているという態度でしょうか。「娘」や「親」のような単語を自分と他者との類似によって述べる場合、「〜ようだ」と「〜ようなものだ」では、やはり何か待遇のコードスイッチの切り替えがあるように私には感じられます。

■結論
 以上をまとめると、「娘」や「親」がもつ意味特徴のすべてをカバーして「〜の娘/親のようだ」が使えれば問題ないのですが、通常はプラス評価の側面に焦点があたるため、“自分との関係を述べる”場合には「待遇表現の制約」が働いて、「私は○○の娘/母親のようだ」が使いにくいと考えました。それを補うためにある種の謙遜の態度を表すことができる「〜のようなものだ」があり、また客観的な言い方として「〜のような存在だ」が、さらにはあくまで個人的な感覚であることを示す「〜のように感じる」があると考えてみました。

結論 削除/引用
No.37-6 - 2010/02/27 (土) 17:00:06 - oyanagi◆t0YRevJB
■結論

 以上をまとめると、「XはYの{娘/母親}のようだ」という表現では、「娘」「母親」という単語がもつプラス評価の意味特徴が喚起され、それを押しつけるような表現になる場合、つまり「X=私」「Y=他者」となると不自然になり(「私は先生の娘のようです」は不自然)、相手をプラス評価するような表現になる場合、つまり「X=他者」「Y=私」のほうが自然になる(「先生は私の娘のようです)は自然)と考えてみました。これは待遇表現の制約の一種と言えます。

 そして、「私は先生の娘のようなものです」にすると不自然さが減るのは、待遇表現の制約が薄れ、類似性を客観的に捉えて主語名詞の本性を説明する文になるからだと考えました。同様の理由で「私は先生の娘のような存在です」も自然だと考えました。そして、この考え方に基づいて、「娘」「母親」のような二者関係に縛られない単語である「奴隷」「操り人形」「使い走り」などを使うと、許容度がアップすると考えました。言い換えれば、プラス評価の授受という視点がなくなり、マイナス評価の授受になる場合には、上述の待遇表現の制約が働かなくてもいいということです。(罵る場合専用の敬語表現はありません)

 今回の考察は、(5)と(10)の対比をヒントに進めてみたのですが、気がついてない重要なことがあるかもしれません。あくまでも考え方に一つとして参考にしていただければと思います。長くなりましたが、何か不明な点があれば遠慮なくご質問ください。

「〜ようなもの」について 削除/引用
No.37-5 - 2010/02/27 (土) 16:58:53 - oyanagi◆t0YRevJB
■「〜ようなもの」について

 最後に「〜ようなもの」について考えておきます。ここで現れる「よう」は(B)の比況の「よう」とつながっていますが、「〜ようだ」と「〜ようなものだ」はまったく同じといいうわけではありません。この「もの」は「真理」「本性」などと呼ばれる用法で、(13)のような文がそれに該当します。

(13)a 女心はわからないものだ。
    b やる気を出せば、何か結果が出るものだ。

このような「もの」と「よう」が組み合わさると、「喩えることによってそのものの本性を描写」することになります。

(14)人生はチョコレートの箱のようなものだ。(映画「フォレストガンプ」より)

 そこで、問題の(5)との比較を考えると、(15)のほうは第一に「よう」が(B)の用法であることが明示され、かつ主語名詞の本性を述べるということになります。

(5) 私は先生の娘のようです。
(15)私は先生の娘のようなものです。

 なぜ(15)では自然さがアップするのかについてですが、原因(iii)で説明した制限が解消されるからだと言えます。つまり「ようだ」という言い切りでは、「娘」がもつプラス評価の意味特徴が喚起され、相手(○○さん)に対して自分のことを「○○の娘のようだ」ということが、押しつけがましい印象を与えてしまったのですから、そのような押しつけがましい印象を与えないようにすればいいわけです。

 「○○の娘のようだものだ」とすることによって、自分自身がどのような存在なのか、その本性を客観的に類似性の点から喩えとして述べることによって、押しつけがましさを減らしていると考えられます。客観的な表現という点では、やや硬い表現ですが、(15)のようにしても同じ効果が得られて、自然になると思います。

(15)私は先生の娘のような存在です。

(つづく)

意味的な制約を考える(2)待遇という視点 削除/引用
No.37-4 - 2010/02/27 (土) 16:58:09 - oyanagi◆t0YRevJB
■意味的な制約を考える(2):待遇という視点

 人と人の【類似性】の中で「娘」のような親族関係の類似性を「自分」との関係として捉える方法として(ア)と(イ)があります
(ア)「自分(X)は相手(Y)の娘のようだ」と捉える
(イ)「相手(Y)は自分(X)の娘のようだ」と捉える

 (ア)は(5)に、(イ)(10)になります。
   (5)私は先生の娘のようです。
   (10)先生は私の娘のようです。
 ここからは私の推測ですが、両者の自然さの違いは、この二つの表現がどのような意味を伝えるのかと関係があると思います。「娘」という単語は「語彙の体系」の中で、「親」との対義関係において存在する単語です。お互いの存在が前提となっているということです。(娘があって、親が存在するし、親があって、娘が存在するという関係)このような対義関係で、「自分」がその一方に含まれる場合の述べ方は次のように整理されます。
 ★「話し手(私)」が、「相手」を中心にして、自分(私)との関係を述べる
   →(ア)「わたしは、○○の娘のようだ」
 ★「話し手(私)」が、「自分(私)」を中心にして、相手との関係を述べる
   →(イ)「○○は、わたしの娘のようだ」

 この(ア)【相手を中心にして自分との関係を述べる】と(イ)【自分を中心にして相手の関係を述べる】のかという違いが、伝える意味においてどのような差を生むでしょうか。
 血縁関係にない人同士が「親」と「娘」の関係にあると捉えるときに、そこには第一に「実の娘ではないが、実の娘のように愛おしい」という「娘」という単語がもつ(百科事典的な経験から得られる)意味特徴に焦点が当たると考えられます。(イ)'はまさにそのような意味を伝えられる表現です。ですから、「花子さんは{私/自分}の娘のようで、愛おしく感じる」と表現することには不自然さがありません。

 ★(イ)→(イ)'『○○は、まるで【自分の娘】のように愛おしい存在である』

ところが、(ア)にもこのような意味特徴に焦点が当たると考えると、次のようになります。
 ★(ア)→(ア)'『自分は、まるで【○○の娘】のように愛おしい存在である』

これでは「自分が相手にとって愛おしい存在である」ことを主張しているようで、どこか相手に押しつけがましいという印象を与えます。表し得る意味としては(ア)’は存在しますが、そのような意味を実際に伝える表現として「自分は○○の娘のようだ」が使われるように定着はしなかったと考えられます。それが不自然な印象を与えている根本的な原因だと考えられます。
 対義関係にある「親」という単語についても、このような考え方があてはまることを確認しておきます。血縁関係にない人同士が「親」と「子」の関係にある捉えるときに、そこには第一に「実の親ではないが、実の親のように庇護を与える/惜しみなく愛情を注ぐ」という「親」という単語がもつ(百科事典的な経験から得られる)意味特徴に焦点が当たると考えられます。
註:プラスの評価で「まるで本当の親のように厳しく注意してくれる」というような側面も考えられます。
(イ)''はまさにそのような意味を伝えられる表現です。ですから、(11)のように表現することには不自然さがありません。

 ★(イ)→(イ)''『○○は、まるで【自分の母親】のように{庇護を与えて/愛情を注いで}くれる存在である』

(11)山田さんは、私の母親のようです。

ところが、(ア)にもこのような意味特徴に焦点が当たると考えると、次のようになります。

 ★(ア)→(ア)''『自分は、まるで【○○の母親】のように{庇護を与えて/愛情を注いで}あげる存在である』

これではやはり(ア)'と同様にどこか相手に押しつけがましいという印象を与えます。実際、(12)のような表現は(5)と同じ程度に不自然さがあるでしょう。

(5) 私は先生の娘のようです。
(12)私は山田さんの母親のようです。

以上のことから最終的に、問題の文が不自然に感じる根本的な原因として(iii)を考えておきます。
★原因(iii):
 「〜ようだ」という対象間の類似性を認める表現形式において、
 「自分」と「他者」を、「娘」または「親」のような(人間関係の)対義関係にある単語を使って表現する場合で、
  かつ、文末が言い切りの「〜ようだ」の形式の場合、
 通常、「娘」「親」がもつ(百科事典的な経験から得られる)プラス評価の意味特徴に焦点があたるが、
 他者を主題にして、【○○は、【私の{娘/母親}】のようだ」と述べれば、自然になるが、
 自分を主題にして、「私は、【○○の{娘/母親}】のようだ」と述べると、
 押しつけがましいという印象を与えるためこのような表現形式は定着しなかった。
(つづく)

意味的な制約を考える(1) 削除/引用
No.37-3 - 2010/02/27 (土) 16:54:40 - oyanagi◆t0YRevJB
■意味的な制約を考える(1)

 まず「娘」という単語そのものに何か不自然さを引き起こすものがあるのかを見てみましょう。そこで「娘」の部分を別な言葉にして不自然さが改善されるかどうか見てみましょう。

(5)私は先生の娘のようです。
(6)私は先生の{奴隷/操り人形}のようです。
(7)私は先生の{使い走り/使いっぱしり}のようです。

私の語感では、(5)よりも(6)(7)のほうが自然さが増します。人と人とを【類似性】で関係づけるときに、「奴隷」や「使い走り」はイメージとして捉えやすいですが、「娘」という関係は非常に抽象的でイメージとしてはっきり捉えにくいからかもしれません。「ようだ」と言い切らずに、(8)のように表現すれば、自然さはアップするでしょう。

(8)私は先生の娘のように感じます。

そこで不自然さを引き起こす原因として(ii)を仮定してみます。

★原因(ii):比況の用法では、人間関係を表す「娘」のような単語は抽象すぎて使いにくい。

しかし、すぐに反例が見つかります。

(9)花子さんは、私の娘のようです。(かわいくてたまりません。)

(10)のように「先生」という単語に交換しても、「私」はその先生に対して年上の年長者だと想定すれば、(5)と比べてはるかに自然な日本語になるでしょう。

(5)私は先生の娘のようです。
(10)先生は私の娘のようです。 (先生:25歳、私:55歳)

このような判断に多くの人が賛成するのなら、「娘のようだ」という表現そのものではなく、「私」を主語にして「○○の娘のようだ」という文を作るときに何か意味的な制限があると考えられます。この点がもっとも重要で興味深いところです。

(つづく)

「ようだ」の二つの用法 削除/引用
No.37-2 - 2010/02/27 (土) 16:53:23 - oyanagi◆t0YRevJB
たなえさん、ようこそ勉強部屋掲示板へ。
ここのところ忙しくてすっかり回答が遅くなりました。申し訳ありません。
(言い訳ですが、この時期は大学院のレポートがいろいろありまして、やっと一段落したところです(^^; )

ご質問の件、なかなか面白いご指摘ですね。「私は先生の娘のようです」はそれ自体、文法的に間違っているわけではありませんが、違和感を感じますね。文法的に間違っていないのであれば、それは意味的な制限にひっかかっているのかもしれません。今回の考察では、まず「ようだ」の用法を確認して、意味的な制限が何かを探って、文の自然さ・不自然さを引き起こしている原因を「待遇表現の制約の一種」だと考えてみました。かなり長い考察ですが、最後まで読んでいただければうれしいです。

■「〜ようだ」の二つの用法

 まず「〜ようだ」の意味を確認しておきます。大きく分けて、AとBの二つがあります。

(A)推量:あの人は(どうやら)先生のようです。[前提:本当に先生かどうかわからない]
(B)比況:あの人は(まるで)先生のようです。[前提:本当は先生でないことを知っている]

 「〜ようだ」は「様」という名詞から文法化した助動詞ですが、基本的に何かと何かの間に【類似性】を認める表現です。そこからXが何か断定できないけれど、その有り様がYと類似しているときに(A)の推量となります。また、XはYでないことが判明している場合に、XがYと類似していることを利用してその有り様を描写するときに(B)の比況の用法になります(「比喩」と言ってもいいです)。

 ですから、例えば、遠くのほうに一面白く広がっているのを見たとします。それが何か断定できないとき、「雪」との類似性から推量すれば(1)になり、すでにそれが「(白い)粉」であることがわかっているとき、「雪」との類似性から描写すれば(2)になります。

(1)あれは(どうやら)雪のようですね。(=どうやら雪が積もっているようですね)
(2)(まるで)雪のようです。(=まるで雪が積もっているようですね)

さて、ここで問題の文にもどって、ここの「ようだ」がどういう用法になっているのかを考えます。「どうやら」と「まるで」を補って考えるとわかりやすいでしょう。

(A)の解釈:
(3)「私はどうやら先生の娘のようです」
   何かの事情で離れ離れになった2人が再会した場面で、なんらかの類似性を示す根拠から推量する。
(B)の解釈:
(4)「私はまるで先生の娘のようです」
   現実は実の親子(母娘)ではないけれども、そのような関係を強く意識させるものが存在すると考える。

 このように「どうやら」と「まるで」を入れるとどのような意味で解釈されるかが示されるので理解しやすくなります。そこで、不自然さを引き起こしていた原因として(i)を考えてみます。

★原因(i)「〜ようだ」がどのような意味で解釈されるかがはっきりしなかった

 しかし、解釈しやすくなったことは確かですが、それでもまだどこか不自然だと感じるでしょう。確かに(A)の解釈の(3)はこのような特殊な状況を想定すれば、意味的にも問題なく解釈できそうですが、(B)の解釈の(4)のほうは、「まるで」を入れてもなお不自然さがつきまとう印象があります。それが事実なら“根本的な原因”はほかにあると考えなければいけません。
(つづく)

「みたい」「よう」の使い方 削除/引用
No.37-1 - 2010/02/18 (木) 12:07:28 - たなえ
「私は先生の娘のようです」
と言われたときに違和感があるのはなぜでしょうか。

「私は先生の娘のようなもの」と言えばだいぶ自然になると思うのですが、
それはなぜてしょうか。

ようです」と「ようなもの、の使い分けはどこにあるのでしょうか。

ようなもの」は他の可能性も示唆しているのだと思いますが、

ようです」は話者の自分の比喩に対する断定的な気持ちを
表していると思いますが、
まさしく、「私としては娘のつもりです」という意味で
使っているのであれば
「私は先生の娘のようです」は正しいのでしょうか。

こんがらがります。

すみません、お助けいただけますとさいわいです。
10件 ( 1 〜 10 )  新 | 古  1/ 1. /1 [ ▼降順 | ▲昇順 ]



暗証キー
名前
メール
タイトル
本文 通常モード 図表モード HTMLモード 本文中のアドレスを自動リンク
    
暗証キー フォーム情報を保存  スレッド位置保持  解決


★ワンポイント
 ※ "#{xx}" で当該スレッドへリンクを設定できます。(例: #{10})
 ※ ">>xx" で同一スレッド内の当該メッセージへのリンクを設定できます。(例: >>26 >>1-100)
 ※ 同一人物からの投稿かどうか判断できるように、パスコードのご利用をお勧めします。(詳細は「使い方」をご覧ください。)
 ※ メールアドレスを公開しないでメールを受け取るには[アドレス非公開]をチェックします。

キーワード  曖昧検索